幕府陸軍

西洋軍装の幕府陸軍歩兵隊と徳川慶喜/wikipediaより引用

幕末・維新

もしも徳川慶喜が戊辰戦争を戦っていたら幕府陸軍歩兵隊は活躍した?

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長州征討に勝利していれば

天狗党の乱】が起きたころ、京都で勃発していたのが【禁門の変】です。

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会津や薩摩の参戦もあり、長州に勝利した幕府。その後、孝明天皇が強く働きかけたのが【長州征討】であり、これを断りきれません。

幕府も指揮官の能力の低さといったマイナス面を改善すべく、イギリス式調練を進めてはいました。

第二次長州征討の結果を見ると、その努力も無駄だったように思えてしまうかもしれません。

しかし、そう言い切れない面もあります。

結果や敗因を見ていきましょう。

・幕府歩兵隊は強かった

→この時点では装備も調練も行き届いており、かなりの強兵でした。

しかし残念なことに、精鋭部隊の数が少なく、しかも各藩の弱兵をカバーするため各所へ引っ張りだことなってしまい、存分に活躍できなかった。

・やはり乱れる指揮系統

→将軍である徳川家茂が陣没し、その後、総大将となるはずの徳川慶喜が途中でやる気を失ってしまった。トップがこの調子では指揮系統は混乱するばかり。

・同床異夢

→長州藩を潰す気のない薩摩藩が露骨にサボタージュをした。他藩にしても「会津藩と長州藩の私戦に過ぎない」と消極的な姿勢だった。

・足を引っ張る諸藩がいる

→長州征討で悪名高かったのが、家康公以来だと自負する名門の藩だった。特に井伊の赤備えだと威張りちらす彦根藩はむしろ嘲笑の対象ですらあった。

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ご覧のように、幕府の陸軍そのものが弱かったワケではなく、概ね指導者層に問題があったのです。

このころは全国的に農兵も組織されつつあり、意識改革が進んでいました。

問題はエリート層の武士。

彼らが特権を手放そうとせず、その点、幕府は遅れを取ってしまった。

逆に薩摩と長州は、攘夷を通してそのことを先に学んでいたのです。

そして幕府にもまた挽回の機会がやってきます。

フランスです。

 


慶応の改革 フランス式を採用

慶応元年(1865年)。

小栗忠順と浅野氏祐(あさのうじすけ)が栗本鋤雲のもとを訪れ、こう提案しています。

「今のイギリス式の伝習はよろしくない。フランス式にすべきである。ひいてはフランスに詳しい貴殿の力を借りたい」

薩摩とイギリスの接近に警戒し、外交面で遅れをとるフランスは、幕府への接近を目指していました。

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こうした人脈を通し、利害関係が一致した両者は接近します。

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フランスの助力を得て始まった幕政および軍制改革は、おそるべきスピードで進みました。

ロッシュが新将軍・慶喜に入れ込み、小栗忠順が辣腕を振るったのです。

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フランス語で掛け声をする教練は猛烈でした。

幕府はフランスと600万ドルにもおよぶ借款成約にこぎつけ、さらには後装式シャスポー銃を配備します。ヨーロッパにおいても高評価を受けていた銃です。

2021年大河ドラマ『青天を衝け』では、商業を重視した薩摩と比較し、幕府は装備が劣っていたとされました。

しかし小栗忠順の商業重視は当時の日本でも最先端をゆき、軍備においても同様でした。

幕府はおそるべきスピードで改革を進め、軍事力も十分に備わっていたのです。

「あのとき長州を倒しておけば倒幕はなかった」とは福沢諭吉の弁ですが、福沢もこうした軍備を活かしきれなかった状況に後悔していたのでしょう。

フランスの指導で訓練される幕府陸軍歩兵隊/wikipediaより引用

 


鳥羽伏見 数を活かせぬお粗末采配

幕府は海軍だけでなく陸軍も強かった。

ただし、それを証明しようにも【鳥羽・伏見の戦い】の結果を踏まえると、厳しい現実があります。

西軍に対し、三倍の兵力を擁しながら敗北した――そうなれば弱かったと思われても仕方ありません。

しかしその点については、明治時代以降も会津藩士たちが敗因分析をしています。

会津藩士たちは士気が高く、それだけに強く、敵からも警戒されていました。一方で肝心の幕府軍が弱く、そもそも戦闘準備を整えていなかった。

最大のミスは、緒戦にありました。

鳥羽街道を進軍していく幕府軍を、薩摩藩兵たちは虎視眈々と待ち受けていました。

「何がなんでも戦いに持ち込んでやる!」

精悍な薩摩隼人らしさで幕府軍を待ち構えていたのです。

結果、薩摩の砲撃と銃撃を受け、幕府軍はもろくも崩壊。このとき銃弾すら装填していなかったのですから、どうしようもない。

鳥羽・伏見の戦いで新政府軍を驚かせたのは、幕府軍以外の藩でした。

会津藩兵は撃たれても撃たれても、槍を持って挑んできたという証言があります。

結局のところ、幕府軍はなぜ負けたのか?

これがなかなか難しい問題で、わかりやすい答えを求めると、装備の差とは言われます。

しかし、ことはそう単純でもないでしょう。

会津藩士だった山川健次郎は『会津戊辰戦争史』でこう分析しています。

・指揮官の力量不足→命令系統が乱れており、各自思うがままに行動するのでどうしようもない

・狭い進路→せっかくの大軍が押し寄せあだとなり、数を活かせず

・司令部が情報収集をしていない→敵が武装し、待ち構えていることすら把握しておらず

武器や練兵度の違いは認識されておりません。

というかそれ以前の問題なのです。

要は士気。

特に指揮官クラスの戦う姿勢が酷い。

ではなぜ、そんなことになったのか?というと、問題はトップのトップ・総大将に行き着く。

つまり徳川慶喜の甘い見通しのように思えてきます。

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