14代将軍・徳川家茂(徳川慶福)のもとに、泣く泣く嫁いだ孝明天皇の異母妹・和宮。
あれほど輿入れを嫌がったのにフタを開けて見れば夫は優しい人であり、二人は愛し合う仲になります。
しかし、激動の最中、家茂は21才の若さで夭折。
彼女もまた、激動の時代の中で静かに生涯を終えた――とはなりません。
幕末の動乱の中、公武合体のかすがいとなった和宮には、過酷な役目が課されていました。
慶応4年(1868年)1月11日、徳川慶喜が戦場を離れ、軍艦・開陽丸で江戸へ戻ってきたのです。
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夫が亡くなったのならば京都に戻れたのでは?
慶応2年(1866)。
14代将軍・徳川家茂は21才(満20才)という若さで世を去りました。
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若くして寡婦となった和宮は、その数ヶ月後に髪を切り、静寛院宮と名乗ります(本稿では和宮に統一)。
夫の死の翌年にあたる慶応3年(1867年)には、兄の孝明天皇も崩御。
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二人に先立ち慶応元年(1865)に和宮は母も失っていました。
立て続けに起こる不幸に身も心も憔悴しきったことでしょう。
こうなると、彼女が江戸に留まる理由もありません。和宮自身もそう考えていました。
皇女の身の振り方となれば中々の一大事ではあるのですが、なんせ激動の政局です。
和宮は、新将軍の慶喜に攘夷の徹底等を求めたものの、返事はない状況。
京都へ戻る話も、いつの間にか宙に浮いてしまうのでした。
しかもタイミングが悪いことに、京都に戻る交渉を行っていた和宮付きの女官・庭田嗣子が急死してしまいます。
色々と模索しているうちに、なんと徳川慶喜が京都から江戸へ戻ってくるというではありませんか。
どうなってしまうのか……。
和宮はさらなる混迷に落とされてしまうのでした。
慶喜、和宮に謝罪を依頼する
慶応4年(1868年)1月11日、戊辰戦争の緒戦である【鳥羽・伏見の戦い】に敗走した慶喜が江戸に戻ってきました。
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このとき彼は、江戸から京都に和宮を戻さなかったことに安堵したに違いありません。
恭順と決めたからには、皇女は使えるカードです。
彼女を盾に交渉すれば、相手も力づくではこられないでしょう。
しかし和宮は、慶喜が面会を求めても断りました。
なぜなら慶喜に対しては、大坂城から自分勝手に逃げ戻ったり、平時は大奥の予算を削られたり、とにかく嫌悪感を抱いていたのです。
そこへ篤姫が仲介に入ったことで、やっと慶喜の要求を聞き入れます。
慶喜は以下について、朝廷に伝えるよう頼みこんできました。
・退隠して政治の表舞台から去る
・後継者の選定について相談に乗って欲しい
・朝廷に謝罪したい
このうち、和宮は謝罪についてのみ聞き入れました。
慶喜が出してきた嘆願書を厳しくチェックし訂正を入れ、女官の土御門藤子を使者に立てることにします。
一般的に、柔弱なお姫様のような印象もある和宮ですが、意志強固で実務能力がしっかりとある女性だったのです。
藤子は和宮の直書と慶喜の謝罪嘆願を持って、京都へと旅立ちます。
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