日本史の権力者を振り返ってみると、豊臣秀吉とその弟・豊臣秀長は特異な存在といえます。
中世から近世にかけた戦乱期の人物であることを差し引いても、あまりに出自が不明なのです。
特に謎多き存在なのが父親。
天正20年(1592年)まで生きた母親の大政所(なか)に対し、父親はかなり早くに亡くなっていたか、天下人となった秀吉が情報を隠蔽してしまったか、本当に誰かわからないか。
豊臣兄弟の出自に関しては定説から珍説まで実に数多く存在するのです。
では、どのような父親説があるのか?
まずは兄の豊臣秀吉から考察してまいりましょう。
木下弥右衛門の子説
木下弥右衛門が秀吉の父親である――というのが最も有名な説でしょう。
しかし弥右衛門自体が身分不詳であり、秀吉の父親確定とまではされていません。
当時、名字を用いていたのはある程度の身分がある人に限られるためです。
「木の下の家に住んでいる弥右衛門」などの通称が名字扱いされている可能性はゼロではないものの、一方では「尾張国中村の木下弥右衛門」と書いている史料もあり、判別に困るところ。
ちなみに、弥右衛門が「織田家の鉄砲足軽だった」という説についても、没年が天文十二年(1541年)とされていて、一般的な鉄砲伝来とされる年より以前の話となり、これまた微妙になってきます。
もちろん「没年(1541年)が誤り」という可能性もあります。
しかし、それが誤りだとすれば他の記録もまた怪しく、何もかもが不明になってしまい……結局、木下弥右衛門という名前だけ広まり、確定できないまま今に至るという、もどかしさが残ります。
皇室の落胤説
英雄伝説には偉い人の落胤説がつきものですが、豊臣秀吉の場合、少々経緯が異なります。
天正年間の事績を記したとする『天正記』の中の『任官之記』という書物に書かれているのです。
この巻は秀吉の関白任官を正当化する内容となっているため、それに相応しい出自を創作したのでしょう。
秀吉の母・大政所(なか)の出自が、その中では
「萩中納言という人が罪を犯して尾張に流された際にもうけた娘」
だとされています。
そして、その後になかが宮中に仕え、身ごもり、尾張に下って産んだのが秀吉だった……という話ですね。
宮中での出産は忌まれるので、出産時に内裏から出るのはまだわかりますが、なんでわざわざ遠い尾張まで下ったのかというところに無理があります。
同時期に複数の書物に登場する説であることから、皇胤説は
・秀吉が自ら書かせた
とも考えられています。
そこまでして関白の座を得たかったということなのでしょうけれども、少々ゴリ押しが過ぎますね。
秀吉誕生時の帝は後奈良天皇という方で、
織豊期によく登場する正親町天皇の父となります。
つまり皇胤説を主張する場合、勝手に異母兄弟がいたことにされた正親町天皇や、その跡を継ぐ予定だった息子の誠仁親王(さねひとしんのう)が気分を害するのは目に見えています。
正親町天皇は『任官之記』の成立翌年である天正十四年(1586年)に譲位し、文禄二年(1593年)に崩御しているので、落胤説が耳に入った可能性は高そうです。
それに対する動きは伝えられていませんが、これから関白という最高の官職をねだろうというときに、相手の心象を悪くするのはどう考えてもマズいでしょう……。
ちなみに誠仁親王は天正十四年(1586年)7月に薨去しています。
譲位が間近に迫る中での急死だったそうで、死因が判然としていません。
中には「秀吉が誠仁親王の側室と密通したため、抗議のために自害した」という噂まであったとか。
となると、勝手に異母兄弟を名乗ったことに対してのストレスがあってもおかしくはなさそうです。
即位したら嫌でも関白とは関わらないといけませんしね。
その後のこともお話しますと、正親町天皇が譲位した相手は誠仁親王の子・後陽成天皇でした。
後陽成天皇がこの説や秀吉に対してどう思っていたのかは、これまた不明です。
しかし豊臣秀次事件の後、秀吉の姉で秀次の母であるとも(日秀尼)が出家した際、”瑞龍寺”という寺号を与えたのは後陽成天皇。
日蓮宗唯一の門跡寺院にもなっており、公家や皇族の女性が代々住職を務めることになります。
となると、おそらく後陽成天皇はともや秀次に好意的だったと思われ、一方の秀吉に対しては……といったところ。
それに皇胤説が事実の場合、母方とされる萩中納言やその親族が秀吉の関白就任前後に名乗り出てきそうなものですよね。
関白の親族ともなれば、朝廷への影響力は絶大ですから。
やはり全体的に無理のある説となりましょう。
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