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【和宮と慶喜】
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困惑する朝廷、奔走する藤子
藤子は和宮の直書を携え京都に向かいます。
そして二月には到着。
公家や朝廷はなかなか困惑してしまったようです。
和宮の直書をぞんざいに扱うことはできかねないけれど、かといって新政府の意向を無視して慶喜の謝罪を受けることもできません。
公卿に書を渡した藤子に対し、相手はなかなか返書をよこそうとはしません。
彼らは新政府の出方を見ていたのでしょう。
藤子はついにこうまで釘を刺されます。
「御所に宮の直書を出してはあきまへんで」
江戸からはるばる運んで来た直書をこう言われて、藤子は納得できなかったことでしょう。
ずるずると返事を引き伸ばされ、待ち続ける日が続きます。
待ち続けるだけではなく、藤子はありとあらゆるツテや人脈を頼りました。
そして待つこと12日間。
やっと「慶喜が誠実に謝罪をするのであれば、徳川家存続を一応は認める」という返書を受け取りました。
この返書を手にして、藤子は江戸へと戻ります。
無血の降伏へ、動く和宮
江戸へ戻った藤子から、念願の返書を受け取った和宮。
その方針を幕臣たちに伝え、江戸の平和を祈願させます。和宮は江戸と徳川家に危害が及ぶことを避けようとしていました。
更には東に向けて進軍する新政府軍に藤子ら腹心の女官たちを派遣し、恭順の意を伝えます。
皇女の嘆願を無視するわけにもいかず、彼らは和平の道を模索し始めます。
歴史の表舞台では、勝海舟と西郷隆盛が江戸城無血開城を決めた、ということになっています。
そこには和宮も、和宮の意を受けた藤子ら女官たちも、天璋院篤姫も登場しません。
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しかし舞台裏では、女性たちも力を尽くし、最悪の事態を回避しようと動いていたのです。
和宮のこうした動きを見ていると、悲運のプリンセスだけではない人物像が見えて来ます。
危難に際してテキパキと行動し、腹心の部下を派遣。
彼女は自分の手札としての価値を活かして適切に行動できる、かなり切れ者な女性だったのです。
悲運のプリンセス和宮像も美しいものですが、それだけではない有能な一面があった――それがもっと世に知られてもいいような気がします。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
辻ミチ子『女たちの幕末京都 (中公新書)』(→amazon)