幕末のロシア南下政策

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ロシアの南下政策には幕府も警戒~蝦夷地=北海道は幕末から危機に面していた

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ロシア南下政策の歴史
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樺太が見いだされた

コロンブスがアメリカ大陸を発見した、という言い方は最近否定されつつあるようです。

西洋人が発見する前から、アメリカ大陸は存在しており、人も住んでいたのだと。

樺太についても、似たようなことが言えるのではないでしょうか。

間宮林蔵の探険により、日本が認識したとされる樺太。

間宮林蔵
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それ以前に会津藩が、幕府の命令を受けて対ロシア警備を行っていました。

クシュンコタン(のちの豊原/現在のユジノサハリンスク)がロシアによって襲撃され、その対抗措置として派遣されたのです。

この会津藩による警備は、間宮林蔵の探険よりも早い。

松前藩士が上陸し、探険したこともありましたが、幕府の認可のもとで樺太へ最初に上陸した和人とは、間宮ではなく会津藩士と言えるのではないでしょうか。

間宮の探険は、時代の転換点の象徴といえました。

外からは、北方ロシアの圧迫が迫っている。国内での産業や経済は爛熟し、外との公益も求められるようになっていく。このままでは限界があると、幕府も考えていたのです。

 


五稜郭は和洋折衷ハイブリッドだ

幕末モノのフィクションですと、京都はじめ西日本で政治活動をしていた西南の藩に対し、のんびりと時代の流れについていけなかったように描かれるのが、東北諸藩です。

重ねて申し上げますが、それは誤解です。

彼らは彼らなりに、ロシアの脅威をひしひしと感じており、蝦夷地警備を担当しておりました。

五稜郭や四稜郭も、こうした中で建築された城塞です。

四稜郭/photo by 国土画像情報(カラー空中写真) wikipediaより引用

五稜郭のあの形は、西洋由来のヴォーバン式、クーホールン式、そして日本式を組み合わせたハイブリッドです。

これだけのものを作ることが出来るほど、幕府にだって知識もあったわけです。

設計者は、大洲藩士・武田斐三郎成章でした。

緒方洪庵の適塾で学んだ秀才で、オランダ語を理解していたものの、英語を学ぶ機会はなかったため、函館の捕鯨員から学んだとか。

この武田が、幕政の無茶ぶりに直面します。ペリーは浦賀だけに立ち寄ったわけではなく、浦賀の前に琉球、後に蝦夷地の函館にも立ち寄っております。

ここで幕府側が交渉役に指名したのが、武田でした。当時28歳です。しかも、オランダ語の読み書きはできても、英語はできません。しかも、そこまで身分が高いわけでもない。

それでもペリーの通訳を務めたウィリアムズは、武田について記しています。

「背が高くて、私が出会った日本人の中では最もハンサムな部類に入る。学識もあり、おそらく身分も高い」

当時の来日外国人は、日本人男性の容姿を褒めることは滅多にありません。武田は気品あふれるイケメンだったのですね。

ウィリアムズが思ったほど武田の身分はさ高くはありませんが、これは日本特有の事情もあるのでしょう。日本は他国と比較すると身分が均質的で、立ち居振る舞いや服装を見て、一目でわかるわけでもありません。

そうはいっても、武田はきっと立ち居振る舞いが素晴らしかったのでしょう。

武田には幕末らしさが溢れています。

さほど身分が高くなくとも、彼は長崎と函館で学識を深めることができました。そして実力を認められ、ペリーと交渉するほどの大役を任せられたのです。

そんな武田に、函館へやってきていたフランスの海軍人たちが築城術を教えてきます。フランス人は何が目的だったのか?

幕末函館に訪れたフランス人には、“怪僧”ことメルメ・カションもおります。カションも栗本鋤雲と熱心に対話しており、ともかく親切です。

フランス人気質と言えるのかどうか。彼らには目論見があったことは確かです。当時、フランスでは蚕に伝染病が流行し、絹糸生産が止まるという危機を迎えていました。

絹産業を復活させるためには、本場である清か、あるいは日本からの導入が近道です。頑なな清よりも、日本の方がよいのでは? そういった思惑もあったようです。

かくして五稜郭設計と建設について詰められていた安政3年(1856年)――この歳30歳になった武田は、旗本に準じる幕臣として取り立てられました。

ここで武田は、横須賀造船所の函館版のような事業を展開します。製鉄に、銃砲製造に取り組み、五稜郭に備え付けることとしたのです。

しかし、不運にも暴風雨にあい中断。再開するほどの財政的な余裕も幕府にはなく、中途半端に終わってしまいました。

中途半端といえば、五稜郭の立地もそうです。

戦国時代の城郭は、地理的条件を踏まえ、険しい地形に建てられることもありました。しかし、都市が形成され、役所としての機能を備えるとなると、それでは不便なのです。

武田自身は、五稜郭はもっと奥まった場所に建てるべきだと考えていました。とはいえ、箱館奉行所としての機能も備えるとなえると、そうもいかない。

五稜郭は和洋折衷です。そうした様式のみならず、軍事要塞と役所機能というハイブリッド型でもありました。

箱館戦争】の短期決着から、五稜郭はしばしば酷評されます。

しかし、機能と役割を踏まえれば限界もりました。

箱館戦争の勝敗には、列強の思惑も大きく絡んでいて、幕府軍最大の強みである海軍は、開陽丸を事故で失ってしまい、力を大きく落としました。

そうはいっても、これが決定打ではありません。

新政府軍の背後にいるイギリスが、アメリカから戦艦ストーンウォールを取り寄せたからには、優位性は失われてしまったのです。

エンジニアとして五稜郭に携わった武田は、軍人として【箱館戦争】には参戦しておりません。明治維新以降は新政府の陸軍に仕えました。

華々しく幕府に殉じたわけでもなく、寡黙な技術者肌であった武田。そのため知名度が高くないことが惜しまれます。

ちなみにあの新島襄も、この武田に会うために函館まで渡ったと言います(タッチの差で、会えなかったそうで)。

現在、五稜郭には武田の顔がレリーフに刻まれております。

武田斐三郎の彫像(五稜郭)/wikipediaより引用

確かに気品ある、なかなかの美男です。

上掲の画像をご覧のように、顔だけがテカテカとしてますよね?

なんでも「触ると頭がよくなる」という伝説のせいで、すり減っているんだとか。

 


陣屋もあった

五稜郭と四稜郭だけが、こうした建造物ではありません。

函館市内には、三稜郭、七稜郭とみなせるものがあり、幕府軍が築いたものと推察されます。

しかし、実はこれだけではないのです。

蝦夷地には、奥羽六藩や松前藩が築いたとみられる、警備のための陣屋跡が各地にありました。

そうした跡は、歴史の流れの中、建物は壊されて跡も消され、ひっそりと消えていったものも多いのです。

とはいえ、全てが消えてしまったわけではなく、保存されて見学できる場所もあります。

白老にある白老仙台藩陣屋跡は「仙台藩白老元陣屋資料館」として整備されています。

戸切地の戸切地陣屋は、整備事業が行われており、見学もできます(参考:北斗市歴史年表)。

国指定史跡に指定された陣屋も存在します。

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