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【木戸松子】
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新選組に捕まったり乱暴されかけたり
ときは幕末。
武士の間で「攘夷だ!」「アホか開国だ!」「ブッコロ!」(超訳)という考え方が当たり前になっていた時期です。
特に木戸は長州藩の要人ですから、池田屋事件・禁門の変からの「お前ら朝敵」レッテルを貼られてしまった後、常に命を狙われている状態でした。
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「逃げの小五郎」とはいえ、物には限度がありましょう。
松子は無事を祈って待つ日々でしたが、新選組に捕まったり、ならず者に乱暴されかけたりと、無関係ではいられませんでした。
ちなみに後者の一件の際、伊藤博文が「松子が三味線を追って投げつけ、その隙に対馬藩邸に助けを求めて事なきを得た」と語ったことがあるそうなのですが、何でそんなの知ってたんでしょうね。事実でもそうでなくてもコワイ。
その後も「妻なら夫の居場所を知っているだろう!」と考えた輩に追われる日々が続きます。
が、松子はそのたびに協力者に助けられたり、あるいは自身の機転によって危機を乗り越えました。
一つところにいた時期はそう長くないので、「留守を守る」というイメージではなくとも、夫の情報と命を立派に守っていたわけですね。
当然その苦労は並大抵のものではなく、やっと木戸と再会できたときも横を向いたままだったとか。
もしかしたら嬉しすぎて何も言えなくて、その照れ隠しだったかもしれませんね。
なんだか……命かかってるのに何か甘酸っぱくなってきた……。
一緒に西洋旅行も計画していたが……
まあそんなこんなでやっと一緒に暮らすことを考え始めたのが、ちょうど明治元年(1868年)頃のことだといわれています。
このへんについては身分何たらというよりただ単純に戊辰戦争などの影響だと思われますが、結婚した日についてははっきりわかっていません。
翌年には東京で暮らし始めており、木戸の日記などから夫婦生活がいくらかわかるようになってきます。
友人の家へ行くとき夫婦揃って出かけたとか、木戸の後輩へ贈り物をしたなど、細やかな配慮をする女性だったらしきことがうかがえます。
木戸にとっても松子はまさに「自慢の妻」だったらしく、ダイヤモンドの指輪を注文したり、一緒に西洋へ旅行する計画も立てていたとか。
松子の服装(洋服)まで気にしていたそうですから、ホントにいつまで経っても仲の良い夫婦だったんでしょうね。
しかし、西洋旅行が実現する前に木戸が亡くなってしまったため、この計画は夢のままで終わりました。
木戸が亡くなった直後、松子は仏門に入って「翠香院」と名を改め、木戸との思い出が詰まった京都へ引っ越しました。
文字通り、夫の墓を守るために後半生を費やしたのです。唯一の楽しみは、木戸の存命中に迎えた養子・忠太郎の成長だけだったとか。
それから九年、望み通り夫との思い出を胸に、松子は彼岸へ旅立ちます。
現代人のイメージする幸せとは全く違いますけれども、見方を変えれば「理想の老後」ともいえるのではないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『物語 幕末を生きた女101人』(→amazon)
安岡昭男 『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
木戸松子/Wikipedia
木戸孝允/Wikipedia