こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【江戸城無血開城】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
和宮にすがる慶喜
大奥へ通じる御鈴廊下を将軍が歩き、女たちが伏せる――時代劇の定番場面ですね。
しかし、戦場からおめおめと逃げ帰った上様に対し、大奥がそんな殊勝な態度を取ることはありません。
なにせ、大奥は慶喜の父である徳川斉昭のころから彼らを憎んでいます。
大奥女中を無理矢理暴行のうえ妊娠させ、予算削減しろといちいちねじ込んできた斉昭。その子の慶喜なぞ、顔を見ることすらおぞましい。
そもそも京都にいて大奥に足を踏み入れてもいない。
そのくせ、予算削減だけはしつこかった!
大奥は仕返しをします。布団を欲しいと言った慶喜にこう言ったのです。
「予算削減で余った夜具なぞありません、毛布で寝てください」
歴代徳川将軍の中でも、毛布に包まって眠る羽目になったのは、それこそ慶喜だけでしょう。
大奥の頂点に立つ天璋院篤姫も当然激怒しています。
弱腰の慶喜なぞ無視し、彼女は奥羽越列藩同盟に激励の書状を送り、かつ後に徳川家達となる田安亀之助に未来を託していました。
奥羽越列藩同盟は何のために結成? 伊達家を中心とした東北31藩は戊辰戦争に敗れ
続きを見る
幻の16代将軍・徳川家達が慶喜の跡を継ぎ当主に就任~ついに篤姫の願い叶う
続きを見る
そしてもう一人、大奥から敬愛されていた人物といえば、家茂の未亡人・和宮がいます。
夫の死後、京都に戻ることもできず、この大異変につきあたったのです。
剃髪して二の丸で暮らし、静寛院宮と称されていた和宮。そんな彼女に慶喜は泣きつきます。
「朝廷に逆らうつもりはなく行き違いだった、やむを得ないことだった」
そう弁明した上で、徳川家の存亡を朝廷に頼むよう訴えたのです。
和宮『静寛院宮日記』には、嫁いだからには徳川家を滅ぼしたくないと書かれており、美談として引用されます。
その一方、和宮が当時残した書状には本音が書かれていました。
夫であった家茂のために苦労をするならばわかる。しかし、よりにもよって朝敵・慶喜ごときのために身命を捨てるなぞ、父である帝を穢すことになる。残念でなりません――。
ここまで慶喜に冷えきった心だったとはいえ、和宮は己の役割を果たしました。朝廷との交渉を引き受けているのです。
よほど堪えたのでしょう。慶喜は、天璋院と和宮の慰霊は欠かさなかったとされます。
大坂から逃げ戻った慶喜を助けるため和宮が嫌々ながらもしたことは?
続きを見る
このことを聞いた大久保利通は、こう書きました。
あほらしさの限りの御座候。
朝敵として討伐されながら、隠退くらいで謝罪になるって? 舐めてんのか? そんな苦々しい思いが記録されています。
刀を抜いたらただでは収めない薩摩隼人とすれば、その情けない姿に闘争心を掻き立てられたことでしょう。
薩摩藩の面々は、会津藩のようにきっちりと筋目を通した相手は武士として敬愛を示します。敵ながら天晴れ!ということですね。
しかし慶喜についてはハッキリと軽蔑しています。
煮え切らない慶喜の態度は、かえって西軍を硬化させたのです。
聡明であるはずの慶喜は、周囲の感情も、情勢も、何もかも読めていませんでした。
【江戸城無血開城】に向けて、さしたる役目もありません。
かつて慶喜に翻弄された山内容堂、松平春嶽らは朝廷工作に動いていた証拠があります。和宮もそう。
しかし、松平春嶽がいつでも優柔不断であると評した慶喜は、己の命を守るべく右往左往するばかりでした。
捨てるフランスあらば、拾うイギリスあり
慶喜は一縷の望みをかけ、フランス公使レオン・ロッシュに面会しました。
レオン・ロッシュが築いた幕末の日仏関係は情熱的~しかし見通し甘く英国に敗北
続きを見る
これまで慶喜を熱心に支えてきたロッシュとしても幕府を助けるべく提案します。
「全国の大名に向けた新たな政治体制布告を出しましょう。京都の朝廷とは、薩長の干渉がなければ交渉しないと追い返すのです。フランスから兵も送りますから、フランス人士官に指揮を任せてください」
実に具体性のある案でした。しかし……。
「ただ……それなりの資金をいただかねばできませんな。シャスポー銃の代金はいつお支払いいただけますか?」
ロッシュは金勘定をしていたのです。
結果、慶喜はフランスを頼ることを放棄。本人曰く「朝廷に弓を引けない」とのことですが、ならば、はなから頼らなければよく、つまりは言い訳でしょう。
幕臣たちはこれ以前から、薄々勘づいていることはありました。
フランス人は友愛でもなんでもなく、金儲けのために力を貸しているのだと。むろんブリュネのような人物はいましたが、政治とは綺麗事でもありません。
金の切れ目が縁の切れ目であったフランスに対し、意外な人物が慶喜助命に動きました。
イギリス公使のハリー・パークスです。
幕末明治の英国外交官ハリー・パークス~手腕鮮やかに薩長を手玉に取る
続きを見る
イギリスは抜け目なく薩摩と歩調を合わせ、朝廷とも接触を図っていました。
攘夷に固辞した孝明天皇の崩御後であればそれも可能。
東を目指す西軍が、江戸での決戦の際に出る負傷者の治療に協力して欲しいと申し込みに向かったところ、パークスは突如激怒します。
「西洋では、負けた国の君主の首を求めるような残虐なことは許さない、慶喜公は助命なさい! 死罪にするならば国際公法違反だ。日本がこれから先、国際社会にデビューするならそこのところを考えなさい!」
てっきり快諾してくれると思っていた西軍側は困惑するばかり。
「慶喜公は恭順しているのに、戦争を仕掛けるとはどういうことだ! 無政府国家と思われてもよいのか!」
なぜパークスが急にそんな態度を示したのか?
確かに慶喜に抱いていた親愛の情もあるのでしょう。のみならずイギリス人ということも関係しているかもしれません。
遡ることおよそ一世紀前、フランス革命を目にしたイギリス人はこう言いました。
「フランス人は野蛮だ! 国王に王妃をギロチンにかけ、平然としているとは!」
イギリスでは、国王斬首抜きで革命を成し遂げたという誇りもあります。
この時代のイギリスでは、あの名君であるエリザベス1世が嫌われてすらいます。スコットランド女王メアリ・スチュアート斬首があまりに酷いとされました。
※続きは【次のページへ】をclick!