幕末のお姫様

左から毛利安子・鍋島栄子・島津斉彬の娘たち/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末維新のお姫様は自らの舞台で戦った! 鹿鳴館や籠城戦に北海道移住で開拓へ

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伊達保子(伊達慶邦夫人)

戦火に巻き込まれた大名夫人は、苦労したものでした。

二本松から米沢まで、60キロを逃げ延びた丹羽長国と正室・久子。

戦火の中、北の大地を逃げ惑い、その最期すらわからない松前崇広正室・維子と松前徳弘夫正室・光子。

そして屯田兵を率いる夫とともに、海を越えた姫もいます。

伊達慶邦正室・保子(やすこ)もそんな一人です。

北海道開拓といえば、フロンティア精神で頑張ったようなざっくりとしたイメージがあります。

が、そんな甘いものじゃありません。

北海道開拓の現実――明治政府としては、

「流刑と開拓の一石二鳥だろ。米も味噌もないけど、せいぜい頑張ってくれよな」

くらいのノリなんです。

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姫の中でも、屈指の苦難ルートでした。

城で暮らしていた姫が、開拓小屋での暮らしへ。それが保子の明治時代です。

伊達成実を祖とする亘理伊達家邦実正室であった保子。

亘理伊達家は、戊辰戦争敗戦で領地を失い、明治政府から際どい二択をつきつけられます。

「南部で帰農するか、北海道開拓か?」

帰農なんて、プライドが許さない。いくら大変だろうと、北海道開拓しかない!

そう決意した邦成は、保子にとって養嗣子にあたります。

義母である保子は、我が子の決意を応援します。

北海道開拓を成し遂げてこそ、汚名回復であり、新たな国に尽くす道でした。

開拓する暮らしは厳しく、屯田兵となった伊達家の家臣たちは木の根を食べることすらありました。

そんな中、保子は手製の団子をふるまい、人々を励まして回ったのです。

産業にも関心を持ち、開墾地を見回り、養蚕を励ます保子。

恒例の保子が労を惜しまぬ様子を開拓者は心配して、墓参りのためにも東京で暮らしてはいかがかと提案します。

しかし、保子は応じません。

働き続けます。

そんな保子に恥じぬよう、旧伊達君臣は開拓に励み、強い一致団結を持つことで知られるようになるのです。

そんな保子は、いつしかこう呼ばれました。

「伊達開拓の母」

保子の力もあり、北海道という新天地に名を残した亘理伊達家の開拓者たち。

その名は「北海道伊達市」として今も残されています。

 


絲(ル・ジャンドル夫人)

「らしゃめん」という言葉がかつてありました。

漢字では「洋妾」と書き、西洋人の妻妾となった女性を蔑む言葉です。

国際結婚――特に日本人女性が西洋人へ嫁ぐことを恥とする風潮は、明治以降もあったのです。

名門大名家の姫君から、らしゃめんへ。

そんな数奇な運命をたどった姫がいます。

松平春嶽の姫である絲(いと)です。

姫といっても、正室どころか側室ですらなく、春嶽のお手つきとなった侍女の産んだ子でした。

絲の実母は、子のない正室・勇姫への配慮もあったためか、女児を産み落とすと自害してしまいます。一方で父・春嶽は京都まで赴き、心労の多い幕末政局を生きることとなるのでした。

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舟方役人・池田兵衛に預けられたものの、絲は従者三人と手持金もつけられ、姫としての格式を保った暮らしを続けます。

しかし、これも維新まで。

新時代となると、池田家は娘を深川芸者とするほど暮らしに困窮してしまいました。絲は養父の苦難に心を痛め、自らも志願して深川芸者となります。

明治維新後、没落した旗本や佐幕藩士の娘が芸者となることはよくありました。しかし、大大名の姫でそこまで零落した例は、絲くらいではないでしょうか。

そんな絲(16歳)に目をつけ、落籍しようとしたのは、フランス系アメリカ人のチャールズ・ル・ジャンドル(43歳)でした。

親子ほどの年齢差だけでも厳しいのに、相手は西洋人です。嫌がる絲ですが、明治政府はル・ジャンドルをお雇い外国人として雇用したくて仕方ありません。

伊藤博文大隈重信といった錚々たる大物政治家に「お国のためだと思って!」と説得された、16歳の絲に断れる術はありません。

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まるで人身御供に捧げられるような悲壮な決意を固め、彼女は「椿御殿」と呼ばれるほど立派な屋敷に嫁ぎました。

絲は「松平春嶽公の姫だと名乗らないのですか」と問われると、「大名が嫌いだ」と答えたそうです。

母自害のいきさつを知っており、その痛みを忘れなかったのです。

夫妻の間に生まれた愛子という女児は、何不自由ないご令嬢として生きてゆきました。

しかし、夫妻にはもう一人、子がいたのです。

愛子の七歳年上の兄であるこの子は、養子に出されました。

ル・ジャンドルが男児誕生を望まなかったため、絲は夫に無断で深川芸者時代の知り合いに預けてしまったのです。

録太郎と名付けられたこの男児は、やがて歌舞伎役者の養子となりました。

この録太郎は美貌で大人気、「花の橘屋」と呼ばれる時代を代表すると名優となりました。

15代目・市村羽左衛門です。

市村羽左衛門 (15代目)/wikipediaより引用

彼と愛子は、生き別れの兄妹であると本人だけは知っていました。

しかし、人気俳優となった兄のこともあり、醜聞となることを恐れて秘密とされてきたのです。

あまりに悲しい兄と妹でした。彼らの秘密が明かされたのは、その死後であったのです。

羽左衛門は母親に似たのか、黒い目をした日本人的な容貌でした。

周囲が怪しむこともなかったようで、兄妹はその秘密を隠したまま、生きてゆくことになるのでした。

今でも国際結婚をした歌舞伎役者の家系に対して「純粋な日本人以外の血を引く歌舞伎役者がいてもよいものか?」と、差別的なことを言う人がいるようです。

が、そういう人には、既に存在していて、しかも伝説的な名優だったのだ!と、キッパリと答えてあげましょう。

鹿鳴館の華。

イタリア王妃のお気に入り。

籠城戦を指揮する勇姿。

開拓の母。

勝った側も、負けた側も、姫たちは懸命に生き抜きました。

表舞台にはあまりでないかもしれませんが、立派な生き方がそれぞれあったのです。

幕末や明治は男性だけの時代であったか?

それは違います。

女性たちも、懸命に生きていたのでした。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
岩尾光代『姫君たちの明治維新』(→amazon
歴史読本編集部『カメラが撮らえた幕末三〇〇藩 藩主とお姫様』(→amazon
歴史読本編集部『カメラが撮らえた幕末・明治の肖像』(→amazon
『国史大辞典』

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