文化14年(1817年)4月17日は杉田玄白の命日です。
あのインパクトある肖像画で多くの日本人にとってお馴染みの方ですね。
前野良沢と共に取り組んだ『解体新書』も歴史の授業ではド定番のトピックですが、では杉田玄白とは一体どんな人物だったのか?というと、すぐさまお答えできる方は少ない印象。
誰もが知っているようで、実は触れられてないことも多い――杉田玄白の生涯を振り返ってみましょう。
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小浜藩医の三男として生まれる
杉田玄白は享保18年(1733年)、江戸の牛込(現・新宿区)にて、小浜藩医・杉田玄甫(2代目甫仙)の三男として生まれました。
難産のため、母はこのとき死亡。
居合わせた人たちは産婦を救おうとして右往左往し、生まれたばかりの赤ん坊は布に包まれたまま放置されていました。
それが生きていると判明して、ようやく世話をされたと言います。
この享保年間は徳川吉宗が幕政の改革に挑んでいた頃でした。
徳川吉宗は進歩的な気質であり、それまで禁じられていた蘭書を解禁。
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そんな時代に生まれた玄白は、父から愛されつつも厳しく育てられました。
元文5年(1740年)から延享2年(1745年)まで、一家は父について小浜へ移り、小浜では長兄と父の後妻を喪っています。
玄白は家業の医学修行に取り掛かります。
医学は西玄哲に、漢学は儒者・宮瀬龍門に学び、この医学の師である西家には、オランダ流外科術が伝わっていました。
日本の【漢方】は、江戸時代から蘭学が混在しており、東洋医学だけでもありません。
オランダの医術に触れた玄白であればこそ、後の業績につながる好奇心湧いてきたのでしょう。
罪人の腑分け(人体解剖)をしたらしい
私達が何気なく使っている言葉に「五臓六腑」というものがあります。
実はこれ、東洋医学の考え方。
思想と深く結びついていて、五行説と人体構造が結びつけて捉えられていました。
しかし時代がくだると、医者たちは疑念を覚えます。
理論と実際は、果たして一致するのかどうか?
学問を修めた過ぎた玄白は、宝暦3年(1753年)、5人扶持の小浜藩医となります。そしてその翌宝暦4年(1754年)、同僚の医者が持ち込んだ知らせに、玄白は驚きました。
「京都の山脇東洋が、罪人の腑分け(人体解剖)をしたらしい」
これが日本初、公儀の許可を得た上での腑分けでした。
結果、東洋は蘭書の記述が正しいことを知り、『蔵志』を執筆。
嗚呼、私も、腑分けをしたい――日本各地の医者がそう熱望し、腑分けブームが到来しました。
宝暦7年(1757年)になると、玄白は小浜藩医でありながら、日本橋で町医者を開業します。
そこへ出入りしたのが本草学者の田村元雄や中川淳庵、平賀源内などでした。
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