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【杉田玄白】
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蘭学に沸く江戸の学者たち
本草学では薬物の原料を研究します。
主に扱われるのが植物であり、それだけでなく鉱物や動物の臓器も含まれます。
医学とも近いため交流が生まれ、その中の一人である平賀源内は、マルチな才能を持つ野心家であり、蘭学に傾倒しました。
彼がにぎにぎしく開催した「物産会」には、外国の珍しい物産が並び、そこへ足を運ぶうちに、玄白は蘭学への興味が高まっていきました。源内ともすっかり意気投合します。
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明和2年(1765年)、玄白は藩の奥医師となりました。
この年、オランダ商館長やオランダ通詞らの一行が江戸へやってきた際、定宿の長崎屋を訪問。
オランダ人との交流は当時広まりつつあり、ちょっとしたブームとなっていて、その最中に玄白は通詞の西善三郎からこう聞かされました。
「オランダ語にご興味があるんですか? いやあ、あれは難しい! ちょっとやそっとではわかりませんよ」
いかに難解であるか――西善からじっくりと聞かされた玄白は「なんだ、そうなのか……」と断念してしまいますが、同じ言葉を聞いていた前野良沢の反応は違いました。
二人は後に劇的な再会をしますが、それは後述するとして……明和6年(1769年)、父の玄甫が亡くなると、玄白は30人扶持の家督と侍医の職を継いだのでした。
『ターヘル・アナトミア』を翻訳し『解体新書』を世に出す
明和8年(1771年)、中川淳庵が一冊の蘭書を杉田玄白に渡しました。
医学書『ターヘル・アナトミア』です。
オランダ語は全くわからないものの、図版の解剖図に衝撃を受けた玄白。
同年、小塚原刑場にて腑分けをするという知らせが届き、時が来た!と喜んだ玄白は仲間の医者たちに知らせると、その中に前野良沢がいました。
といっても一回り上の先輩であり、そこまで親しくもない間柄です。
こうして玄白たちが、待ち合わせ場所の茶店にいると、前野良沢がやってきました。おもむろに懐から蘭学書を取り出します。
「去年、長崎で手に入れた蘭書なのだが……」
「あっ、それ、実は私も持っています!」
「なんと!」
本を見て玄白は驚きました。同じ本、同じ版ではありませんか!
手を叩いて感激する二人は、腑分けに立ち会い、『ターヘル・アナトミア』と見比べます。
そして、あまりにも正確な描写に驚いてしまう。
しかも前野良沢は、玄白とは異なり、オランダ語を得意としていました。
通詞の西善三郎からオランダ語習得の困難を聞かされたとき、玄白は断念しましたが、良沢は逆にやる気を出して勉強していたのです。
これは翻訳するしかない――。
そう決意を固めた杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らの、『ターヘル・アナトミア』との格闘が始まりました。
前野良沢は、後に主君の奥平昌鹿が「オランダ語の化け物」と呼んだことから、「蘭化」と名乗ったほどの人物です。
絶対に蘭書を翻訳してやる!
そんなゆるぎない意志があり、アルファベットすら知らなかった玄白は、良沢の語学力に助けられた翻訳に乗り出します。
その際の四苦八苦は、後に玄白自身が『蘭学事始』で振り返っています。
一応の目処がたつまで、格闘すること一年半――艪も舵もない船で大海原に漕ぎ出すような、苦しくとも有意義な日々でした。
翻訳が出来上がった際、挿絵画家として、秋田藩士・小野田直武を紹介してきたのは平賀源内でした。
彼は源内から洋画を学び、秋田蘭画という一派を形成します。
蘭学オールスターズが揃い、一冊の本を世に出す。これぞまさしく、蘭学革命であったといえるでしょう。
みなもと太郎氏による漫画『風雲児たち~蘭学革命篇~』ではこのことを描き、2018年正月時代劇で、三谷幸喜さんの脚本によって生き生きとしたドラマになりました。
安永3年(1774年)、ついに『解体新書』は刊行。
蘭学仲間の桂川甫三(桂川甫周の父)によって、将軍家に献上されます。
日本の歴史に名を残した一冊が、世に出たのです。
タイトルの「解体」とは、人体解剖という意味です。それまでの「腑分け」をこう呼ぶようにしたのでした。
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