有馬新七

有馬新七/wikipediaより引用

幕末・維新

有馬新七 最期の言葉は「おいごと刺せ!」幕末薩摩で屈指の激しさだった生涯38年

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倒幕の陰謀、寺田屋にて

1862年に島津久光が上洛すると、倒幕を志す者たちが続々と京都に集まって来ました。

・清河八郎
・久坂玄瑞
・品川弥二郎
・寺島忠三郎
・平野国臣
・真木和泉保臣
・吉村寅太郎

錚々たるメンバーですよね。

久光はこうした動きを察知した上で、不快感を募らせます。

倒幕は時期尚早――。

それが彼の考えであり、当の朝廷からも「過激な計画を企む者は始末せよ」と命じられていたほどです。

そのことを伝えても有馬らは止まりません。彼らは覚悟のほどを示すため、以下の計画を練り、京都の寺田屋に集まります。

その内容は、

・京都所司代の酒井忠義と、関白の九条尚忠を殺害する

・相国寺に幽閉されている青蓮院宮(中川宮朝彦親王)を救出する

・青蓮院宮に、倒幕の詔勅を出してもらう

というものです。

ここまで過激な計画を、久光が見逃すはずはありませんでした。

 

「おいごと刺せ! おいごと刺せ!」

4月23日。

その日、有馬は「人生最期の日になる」ということをわずかながらでも感じていたでしょうか。

憤激し、寺田屋に集まった有馬らのもとに、久光は大久保利通海江田信義らを説得に遣わせました。

しかし、有馬たちは応じません。

若さゆえなのか。いくら時期尚早と言われても、盲目的に自身の計画に溺れていました。

もはや話し合いは意味もなし――その時は来たのです。

久光は、大山格之助(綱良)ら8名の手練れを、鎮撫使として寺田屋へ派遣します。

鎮撫とは大層な言い方ですが、なんてことはありません。要は武力に依る討伐部隊です。

彼らは有馬に寺田屋につくと、最後にもう一度だけ有馬への説得を試みました。

「有馬さぁはおいもすか?」

「おらん」

やがて口論となり、激昂した鎮撫使の一人・道島五郎兵衛が「上意!」と叫んで斬りつけます。

「ひとたび刀を抜いたら、ただではおさめるな」

郷中教育でそう習ってきた薩摩隼人たちが、刀を抜いてしまったらどうなるか?

瞬時に、寺田屋は、悪夢と化しました。

同じ郷中で学んだ仲間が、精忠組の同志たちが、薬丸自顕流を学んだ猛者たちが、屋内で絶叫しつつ斬り合う――まさに血の池地獄が広がります。

有馬は道島五郎兵衛と組み合ううちに、刀がヘシ折れます。

そして相手の懐に飛び込み、組み討ちになりました。

「おいごと刺せ、おいごと刺せ!」

有馬が傍らの橋口吉之丞にそう叫ぶと、これに応じた橋口。

仕方なく、有馬と道島を串刺しにして二人は死亡します。

有馬は享年38。

道島は、鎮撫使側で唯一の死者となりました。

有馬ら寺田屋事件(1862年)の死者は、上意に逆らった者として蔑まれる存在となりました。

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その名誉が回復されるのは、約30年後、明治24年(1891年)のこと。

明治政府より従四位が贈られ、彼らの名誉はようやく回復されるのです。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
『国史大辞典』
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon

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