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【有馬新七】
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倒幕の陰謀、寺田屋にて
1862年に島津久光が上洛すると、倒幕を志す者たちが続々と京都に集まって来ました。
・清河八郎
・久坂玄瑞
・品川弥二郎
・寺島忠三郎
・平野国臣
・真木和泉保臣
・吉村寅太郎
錚々たるメンバーですよね。
久光はこうした動きを察知した上で、不快感を募らせます。
倒幕は時期尚早――。
それが彼の考えであり、当の朝廷からも「過激な計画を企む者は始末せよ」と命じられていたほどです。
そのことを伝えても有馬らは止まりません。彼らは覚悟のほどを示すため、以下の計画を練り、京都の寺田屋に集まります。
その内容は、
・京都所司代の酒井忠義と、関白の九条尚忠を殺害する
・相国寺に幽閉されている青蓮院宮(中川宮朝彦親王)を救出する
・青蓮院宮に、倒幕の詔勅を出してもらう
というものです。
ここまで過激な計画を、久光が見逃すはずはありませんでした。
「おいごと刺せ! おいごと刺せ!」
4月23日。
その日、有馬は「人生最期の日になる」ということをわずかながらでも感じていたでしょうか。
憤激し、寺田屋に集まった有馬らのもとに、久光は大久保利通や海江田信義らを説得に遣わせました。
しかし、有馬たちは応じません。
若さゆえなのか。いくら時期尚早と言われても、盲目的に自身の計画に溺れていました。
もはや話し合いは意味もなし――その時は来たのです。
久光は、大山格之助(綱良)ら8名の手練れを、鎮撫使として寺田屋へ派遣します。
鎮撫とは大層な言い方ですが、なんてことはありません。要は武力に依る討伐部隊です。
彼らは有馬に寺田屋につくと、最後にもう一度だけ有馬への説得を試みました。
「有馬さぁはおいもすか?」
「おらん」
やがて口論となり、激昂した鎮撫使の一人・道島五郎兵衛が「上意!」と叫んで斬りつけます。
「ひとたび刀を抜いたら、ただではおさめるな」
郷中教育でそう習ってきた薩摩隼人たちが、刀を抜いてしまったらどうなるか?
瞬時に、寺田屋は、悪夢と化しました。
同じ郷中で学んだ仲間が、精忠組の同志たちが、薬丸自顕流を学んだ猛者たちが、屋内で絶叫しつつ斬り合う――まさに血の池地獄が広がります。
有馬は道島五郎兵衛と組み合ううちに、刀がヘシ折れます。
そして相手の懐に飛び込み、組み討ちになりました。
「おいごと刺せ、おいごと刺せ!」
有馬が傍らの橋口吉之丞にそう叫ぶと、これに応じた橋口。
仕方なく、有馬と道島を串刺しにして二人は死亡します。
有馬は享年38。
道島は、鎮撫使側で唯一の死者となりました。
有馬ら寺田屋事件(1862年)の死者は、上意に逆らった者として蔑まれる存在となりました。
薩摩の惨劇・寺田屋事件(寺田屋騒動)はなぜ起きた? その結果どうなった?
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その名誉が回復されるのは、約30年後、明治24年(1891年)のこと。
明治政府より従四位が贈られ、彼らの名誉はようやく回復されるのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『国史大辞典』
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)