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【上野彦馬】
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パイオニアは引っ張りだこに
そして迎えた幕末から明治期にかけて、彦馬は引っ張りだこになりました。
肖像や風景だけではなく、様々なものにシャッターを切ったのです。
それは一体どんなものだったのか?
証拠写真
幕末は、血なまぐさい攘夷事件が多発していた時代でもあります。
殺傷された外国人の遺体、刑死された生首といった写真も、結構な数が残されております。
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現場の証拠保全のため、彦馬も事件現場で撮影をしました。
警察誕生前夜、証拠をおさめるカメラマンはいたのです。
一例としてヒュースケンの遺体写真も、残っています。
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日本初の天体写真
1874年(明治7年)。
金星の太陽面通過という天体現象が起こります。およそ一世紀ぶりという珍しいものでした。
しかも、欧米では観測できません。
日本、中国、インド、満州といったアジアに、世界から撮影隊が派遣されました。日本でも、海軍が観測を行っています。
アメリカからやってきたダビッドソンの隊に、彦馬も参加。残念ながらこのとき撮影した膨大な写真は紛失し、未発見です。
それでも彦馬にとって、大きな経験であったことは確かです。
日本初の戦場カメラマン
日本史上初の戦場カメラマンともいえる、それが彦馬でした。
1877年(明治10年)に西南戦争が勃発すると、彼と弟子たちは戦場を写真に収めることとなりました。
まだ写真への理解が足りず、費用を申請すると高すぎないかと言われることもあったとか。
絵から写真へ。
戦争を残す技術も、かくして変貌してゆきました。
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アート写真
明治は、キリシタンの魔術であった写真が、芸術とみなされるようになった時代でもありました。
1877年(明治10年)の第一回内国勧業博覧会では、彦馬の写真が鳳紋賞を獲得。
「実に無比の芸術と云うべし」
そんなコメントを受けたのです。
こうなると、彦馬の元に続々と弟子も集まって来ます。
様々な工夫を凝らし、美麗な写真、実物よりも印象的なものを撮影すべく、彦馬は邁進したのです。
肖像写真
明治20年代ともなると、明治天皇と皇后、海外の王族の写真がブームに。
彦馬は引っ張りだこで大忙しです。
それだけではない、プライベートな肖像写真も、ブームとなります。
来日外国人が自分や家族のみならず、現地で作った恋人の写真撮影を頼んできていたとか。
『お菊さん』で知られるロティは、長崎の上野という写真家のことを書き残しています。
それだけ有名だったのでしょう。
明治37年(1904年)に享年67で亡くなるまで、彦馬は写真家として満ち足りた日々を送りました。
忙しくも、飽くことのない、充実した人生でした。
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