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【上野彦馬】
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プロカメラマン上野彦馬
彦馬はダゲレオタイプ写真と同じころ、1838年(天保9年)に生まれました。
そんな彼の一生をたどることは、幕末から明治にかけての写真受容をたどることでもあります。
ざっと振り返ってみましょう。
蘭学者の父と、教養溢れる母のもとで生まれた彦馬は、幼い頃から秀才でした。
上野家では、日常会話でもオランダ語が飛び交うほど。10代で広瀬淡窓の咸宜園に学んだあと、激動の1858年(安政5年)、医学伝習所に入学します。
ここでオランダ軍医ポンペから、学んだのが湿板写真の技術でした。
これだ!
彦馬はそう大興奮し、医学を並ぶことはやめて、舎密試験所で舎密学(化学)を学ぶこととなったのです。
蘭書を読み漁り、同僚の堀江鍬次郎ら写真に取り組むわけですが、そもそも撮影に必要な薬品があります。
そこで自作した……と、簡単にまとめられないほどの苦労をしております。
【上野手作りの薬品】
・アルコール
→焼酎やポンペからもらったジンを煮詰める
・アンモニア
→牛骨を埋めて、腐らせて掘り出し、煮詰める
青酸カリ
→牛の血を日光で乾燥させ、分析して精製する
肉食すら珍しい幕末に、こんなことをしたら、周囲からすればマッドサイエンティストにしか思えません。
実際「キリシタンの妖術でもやっているのか?」と噂されただけでなく、彦馬の姉が「弟の気持ち悪い実験で自分の婚期が遅れる」と嘆くほどです。まぁ、これは責任転嫁の部分もありましたが。
彦馬は江戸に遊学し、来日していたフランス人写真家ロシエに師事。
写真のための化学を学ぶ日々を送ります。
長崎に戻ってからは、カメラを持って撮影に励む毎日です。
そして1862年(文久元年)、故郷長崎で「上野撮影局」を開きました。
写真館は赤字必至
江戸から戻った彦馬を迎え、長崎の人々はこう噂しました。
「ホトガラ狂いが戻ってきたと!」
歓迎ムードどころか、正気を失っているとすらみなされていたのです。
写真は、どのような扱いをされていたのか?
というと、これより前の1860年(万延元年)の万延元年遣米使節は、現地で幕府の使節たちが硬い顔で写真におさまっております。
同年の遣欧使節団では、福沢諭吉はじめ、リラックスした笑顔で写真におさまる人もいたものです。
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それも彼らが、最先端の学問を学んでいたからこそ。
当時は、カメラ好きの島津斉彬に、写真モデルを頼まれた薩摩藩士2名が、「魂を吸われたくない」と切腹したこともあったほどでした。
そんな時代です。
当然、長崎の人々も事情は大して変わりません。
鶏卵紙を使った写真をするようになってからは、上野家には卵の殻がどっさりと置かれていたため、「カステラを作ったらよか!」と助言してくる者もいたとか。
彦馬の写真に、周囲の理解はなかなか追いつかなかったのです。
そんな中で写真館を経営することが、どれほど大変であったことか。
儲かるどころか、大赤字でした。
・モデルに多額を払わねばならないのに、撮影料ゼロ
→撮影というよりも、実験に付き合わされる感覚でした。定着するとお礼を持ってくる者もいたものの、野菜や酒等、現物です。
・「上野撮影局前の溝には、血が流れとるたい」「キリシタンの魔術と!」
→化学薬品実験のせいもあって、黒魔術をしていると信じられたとか。
・化学薬品はともかく高い!
→材料確保も、実験も、大変です。一から作るものですから、並大抵の苦労ではなかったのです。
黒字になるどころか、破産すると家のものが口をこぼすほどでした。
幕末に生きたものの姿を残す
そんな赤字経営でもどうにかやっていけるようになるのは、幕末という時代の流れのおかげでした。
来日外国人が、日本で記念撮影をしたのです。
彦馬が撮影する風景や、遊郭の様子も、お土産には最高。彼ら外国人と取引をするため、政治活動に熱心な者たちも長崎を訪れるようになります。
そうです。
はじめのうちは外国人ばかりであった顧客の中に、彼らも加わるようになったのです。
彼らの多くが、敵対勢力から命を狙われておりました。
そんな時代に、自分の生きた姿を残したい――と、カメラの前でポーズをつけ、金を惜しまず払うようになるのです。
後藤象二郎も、そうした被写体の一人です。
坂本龍馬も、上野撮影局の顧客でした。
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龍馬の撮影者こそ彦馬の弟子である井上俊三ですが、上野撮影局のスタジオに龍馬がいたことは確かなのです。
弟・幸馬や弟子たちとともに写真に打ち込みながら、彦馬は確信します。
『写真師という職業は、これからこの国で定着するぞ』
上野撮影局とほぼ同時、1862年(文久2年)には、横浜で下岡蓮杖が写真局を開業しておりました。
そのため日本の写真の祖は「東の下岡蓮杖、西の上野彦馬」とされています。
彼らは幕末の歴史的な人物だけではなく、街並み、来日外国人、庶民、風俗……様々な姿を写真に残しました。
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