こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【沖田総司】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
「三段突き」の謎
名剣士となれば必殺技がつきものではあります。
同じ新選組の斎藤一は、『るろうに剣心』においては「牙突」があります。『燃えよ剣』はじめとする、司馬遼太郎作品設定での左利きも知られています。
ただ、どちらもフィクションであり、史実ではありません。
「特定の個人と特定の技」のパターンがあると、フィクションで楽しむならともかく現実には危険です。敵に対策を立てられやすくなります。必殺技にはロマンがありますが、非現実的であります。
では沖田総司の技は何か?
というと「三段突き」です。
実は沖田は免許皆伝の時期すら不明。では腕前はどうだったのか? というと実際に稽古をした人、隊士の証言を基にした方がよさそうです。
ざっと見てみますと……。
「近藤勇さんが来ない代わりに、沖田総司さんが来たこともあるんですけどね。彼は強いのに容赦しないし、教え方が乱暴だし、短気なんですよ。なので、近藤さんよりずっと怖いって皆で言い合っていたんです」
「沖田さんの場合、ともかく気合いを入れて、一剣に全身を託して、刀とともに猛然と敵に当たっていくんです。いわば彼の一の太刀はのるかそるか。そういうものでしたね」
実は沖田の突きは、天然理心流としては異端ではあります。天然理心流の印可には突き技がないのです。
幕末最強の剣術は新選組の天然理心流か 荒れ狂う関東で育った殺人剣 その真髄
続きを見る
流祖・近藤内蔵之介は、突き技には疑念を抱いていました。
沖田のようにのるかそるかで突くと、当たればよいものの、外すと隙が大きすぎて危険であると認識していたのです。
これは八王子同心が学び、凶悪犯逮捕のために生み出された天然理心流のルーツを考えると、納得できるところではあります。
チームワークを重視し、殺すよりもとらえることが大事である。
そういう成立史がある流派であれば、ハイリスクな突き技はむしろ避けるのが当然です。
竹刀に慣れていた沖田は、木刀で稽古する天然理心流に入門し、己の非力さを痛感しました。
幼くして入門したこともあり、たくましい近藤たちに遅れないよう、彼なりに考えていったようです。
天狗と例えられた持ち前の素早さ、鋭さを活かす工夫をしたのです。
沖田総司の突きは、皮肉にも新選組が恐れたあの流派に似ているとも言えます。
薩摩ジゲン流です。
一の太刀を当てることを重視した戦いぶりと通じるものがあります。
薩摩示現流&薬丸自顕流の恐ろしさ~新選組も警戒した「一の太刀」とは?
続きを見る
沖田の「三段突き」は、不明点が多いものではあります。
ただ、幕末当時の殺人剣として理にかなっていて、かつ天然理心流や道場で剣術を学んだ隊士とは別の戦い方を持っていたと推測できます。
もうひとつ。「下段の構え」も編み出していました。
剣先をだらりと下げて、敢えて面を開けます。
そこを打ち込んできた太刀をわずかにかわし、あげた太刀をそのまま下ろすのです。
剣術集団である新選組隊士には、それぞれ得意な戦い方がありました。
洗練されていて、スポーツマンシップも感じさせつつ、ともかく技巧がある永倉新八。
「メーン!」「コテッ!」と叫んでしまう欠点もありました。
スパイを務める知能派であり、渋い実践剣を振るった斎藤一。
生き残る術を常に考えていたとされます。
そして情熱的で荒々しい剣術で立ち向かっていく沖田総司。
フィクションのみならず史実でも三者三様、魅力的な三人の剣士でした。
沖田総司美剣士伝説の真偽
最近は、斎藤一らに押され気味の沖田の人気。
そうは言っても新選組では屈指でありましょう。
どこか純粋で、はかなげで、美男子で。
肺結核を患っていて、悲恋を味わう。
愛刀は菊一文字とされる(※史料不足で特定できません)。
土方歳三の場合、美形だったという同時代の証言もかなりありますし、写真もイケメンです。
斎藤一も、写真が美形だったことで話題になりました。
では……沖田総司はどうでしょう?
一応、子孫をモデルとした肖像画はあります。ただ、こういう血縁関係者から再現した肖像画があてにならないことは、斎藤一でも証明済です。
写真が発見されたとされたことも、これまで何度かあります。
土方の遺品から出てきたとか、そういう逸話も盛られましたが、これも背景の事情は明らかになってきています。
◆幕末には無名な人物の写真も結構撮られている
◆そんな写真とドラマで演じた俳優が似ていると信憑性が増す
こういう展開ですね。
斎藤一のように子孫が持ち出したようなものでなければ、信用できないと考えた方が良さそうです。
子母沢寛(しもざわ かん)の『新選組異聞』は確かに貴重でありますが、話が誇張気味なので注意が必要です。「頬骨が高い、口が大きい」という描写は、作者が付け加えたものとされております。
こうした諸事情を勘案しますと、やはり頼りとなるのは目撃証言でしょう。
・色が浅黒い
・目が細い
・平たい顔(ヒラメ顔とされることもありますが、これは誇張か、聞き違いがあるようです)
・五尺五寸(167センチ)の人物と身長は同じくらい
土方や近藤のように、特に目立つ点がないということでしょう。
美男でもない、その逆でもない、普通の顔ということです。
京都で女性との恋愛があったという証言や、女性縁者の墓もあります。恋をしたことはあったようです。
ただ、近藤勇の嫁取り話や、土方歳三のような若い頃からのモテモテ伝説はありません。
土方は「ラブレターもらいすぎぃ!」と調子に乗った手紙を故郷まで送り、そのことで姉・ノブに叱られ反論できなかったそうです。
沖田には、そういう恥ずかしいやらかしはないようです。恋愛に関しては、ごく普通の青年ということでしょう。
美形であるというイメージが誇張されたせいか、ギャップ狙いで「醜かった」という話も誇張されます。
美醜の噂は置いておき、ごく普通であるということでよいのではないでしょうか。
むしろ特異性があったのは、身体能力でしょう。
多摩から上洛し、新選組結成
気の荒いところもある。近藤や土方と親しい。
そんな白河藩士の青年であった沖田総司にも、転換点が訪れます。
文久2年(1862年)、江戸幕府は庄内藩郷士・清河八郎の献策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際し、将軍警護の名目で浪士を募集しました。
14代将軍・徳川家茂(慶福)は勝海舟にも認められた文武の才の持ち主だった
続きを見る
これを契機に新選組が結成されますが、まだ若く、意思決定にそこまで深く関わっていない沖田はあくまで脇役です。
近藤勇は人情味があり、人を束ねる力量がありました。
そのため試衛館には剣士たちが集まり、新選組を組織できたのだと言えます。人の心をつかむカリスマ性と人徳がありました。
土方歳三は、家伝の石田散薬を作るための材料を刈り取る時ですら、指揮能力を発揮しています。
商人だった頃から、人を惹きつける魅力やセンスがありました。道場での剣術はさほど強くないようで、他流試合をこなし、自分なりの戦術を考えていました。戦いや集団を指揮するマネジメントスキルがあった。
つまり近藤と土方の二人は、組織で花開く存在だったのですね。
一方の沖田は?
当時、まだ22歳前後。性格的にも、近藤や土方のような組織マネジメントは発揮されていなかったと推測できます。
あくまで近藤や土方の命令を受けて動く存在でした。
特筆すべき点があるとすれば、この上洛により「白河藩からの脱藩」という処理が行われたことです。
沖田家は義兄・林太郎が継ぐことが確定的となった。嫡男であった彼が不在となることで、姉・ミツの夫が後継者となったわけです。
未婚であり、子もいない沖田総司なのに、沖田家に子孫がいる理由は、ここに起因します。
沖田総司にとっても、この上洛が人生の転機であったことは確かです。
※続きは【次のページへ】をclick!