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【沖田総司】
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壬生浪士組から新選組へ
前述の通り、沖田はあくまで一隊士であり、新選組そのものの動向を追えば彼の生涯も理解できます。
新選組は、結成当時から特徴がありました。
◆経済的には苦しく、組織も不安定
→京都守護職になった会津藩の御預かりとなったものの、見切り発車状態であり、金策をし、住まいも、道場も、工夫しながらなんとかしていく状態
京都市内に先祖代々住む人には、新選組嫌いが多いとされています。
強引な金策を商人相手にし、時に暴力沙汰に及んだ、そんな先祖の嫌な記憶があるのです。
◆脱走者、ルール違反者粛清、内部分裂が多い
→ただし、新選組特有のものであるとは言い切れず
幕末の諸隊や組織で同様の傾向があります。内部分裂した結果、凄惨な殺傷に発展したことはしばしばありました。
例えば有名な薩摩藩の【精忠組】、長州藩の【松下村塾】、土佐藩の【勤皇党】、水戸藩の【天狗党】等においてもそうした傾向が確認できます。
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にもかかわらず内部分裂が「新選組特有である」と誤解されるのは、権力勾配やフィクションの影響でしょう。
政府を築けば、不都合な記録を削除し、個人の責任にして責任回避ができる。そのため幕府サイドの新選組は、太平洋戦争以前のフィクションにおいて悪役が定番でした。
残酷な異常者集団であるというイメージが、流布していったのです。
そこはもっと冷静に考える必要がありましょう。
◆思想的には、実はあまり特徴がない
→新選組は攘夷思想を掲げ、西洋の技術や学問を否定していました
これは彼らが無知蒙昧ということでもなく、新政府をのちに結成する側も、幕府を守ろうとした側も、文久年間初期であればそこまで差はありません。
当初から開明派だった勝海舟や福沢諭吉ら幕臣、薩摩藩の五代友厚らは、非常に例外的な人物です。
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ただし、新選組の思想面で転換点はありました。
芹沢鴨とその一派の暗殺です。
徳川斉昭が率いる水戸藩は、当時、屈指の尊王攘夷派でした。
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将軍継嗣問題で失脚したものの、思想的には煮えたぎっております。そんな水戸藩出身の芹沢鴨は、バリバリの過激主張があったとしても、不思議はありません。
芹沢の暗殺には、金銭面や愛妾・お梅のことがやたらとクローズアップされがちではあります。ただ、これにも注意は必要であるとは思うのです。
新選組は、フィクションでともかく盛り上がる。となると、お色気要素として芹沢と女の話が大きく取り上げられてもおかしくはありません。
芹沢の暗殺に巻き込まれて、同衾していた女性が殺害されていることもあるのでしょう。無実の女性を巻きこんだ暗殺となると、後味は悪いものです。
こういう時、死んでも仕方ない悪女であったと色付けすれば、その後味の悪さは軽減される。そういう気持ちはどうしても考えてしまいます。
文久3年(1863年)の芹沢鴨暗殺事件は、新選組の流れを決定づける重要なものではあります。芹沢本人の人柄のようなことは横に置き、重要とされる点をまとめておきますと……。
◆芹沢鴨一派は水戸藩出身
→思想的な背景、出身地が近藤らとは異なる
◆「芹沢暗殺実行犯は長州藩の間者である」という噂を流していた
→近藤一派の責任を逃し、かつ徹底粛清をはかる狙いがあった
◆実行犯に沖田総司は含まれている
→永倉新八は暗殺後やっと知り驚いていたと証言しており、近藤からの信頼度の違いがわかる
幾度かの血腥い粛清を経て、文久3年末までには、芹沢一派が排除され、近藤主体の組織となってゆきます。
新選組の誕生でした。
世直しの気風があふれる幕末を生きる
その一方で近藤らには不満が募ってきます。
粛清を終えて組織が整ったものの、名目であった将軍護衛という任務はもはやない。
となれば、当初の目的である攘夷をしたい。しかし、そんなことをされては幕府にとっては頭痛の種が増えるだです。
当時の攘夷は、ブームとしての熱気がありました。
外国人なり、外国に思想を学んだ人を殺害して、一体何が思想なのか、そんなブームがあってよいものかと言いたくなるかもしれません。
テロであり、ヘイトクライムです。
尊王攘夷を掲げた側が明治維新を成し遂げたこともあり、犯罪としての責任が曖昧にされてしまった感はありますが、そこはごまかせません。
勝海舟、福沢諭吉、五代友厚のような人物は、愚かであると呆れ果てておりました。
攘夷を実行に移した人物も多数おり、そのせいで幕府は莫大な賠償金を請求され年貢が重くなりました。さらには内政干渉の口実まで与えたのですから、まさに百害あって一利なしです。
そんな折、新選組が攘夷をやらかしたら幕府としては困る……そこで、市中見回り、警護という役割を任されます。
けれども、近藤らは不満ではありました。
これでは町奉行同心と同じではないか!
そんな警備隊を任されるって、どうしたものだろう? もう解散しようか? そう悩んだ時期もありました。
しかし、近藤らは慰労を受け入れ、任務を続行することとなります。
新選組の色合いを考える上で、毛色の変わった事件があります。
元治元年(1864年)、大坂西町奉行与力・内山彦次郎が暗殺されております。
内山は、力士乱闘事件の際に新選組を捜査しており、これに新選組が怒り復讐のために殺されたという説がかつては定着していました。
しかし、これには検討が必要なようです。
そもそも犯行は新選組だったのか?
動機は何か?
ここがハッキリしないために、事件がよくわからないのです。
◆犯人は誰か?
→候補として新選組が挙げられることは確かで、その証言もあることはある
◆動機は?
→ここも問題で、内山本人が悪徳奉行であったという説もあれば、新選組を厳しく問い詰めた正義感の強い人物説も
悪徳奉行である内山を、新選組なり誰か犯人が、粛清世直しの気持ちを込めて殺したのか?
それともただの逆恨みか?
断言できません。
ただ、ハッキリと言えることがあるとすれば、当時は、極めて暴力的解決手段と世直しの気風があり、そして怒りに溢れていたことでしょう。
思想や立ち位置の違いはあれ、世直しとして暴力による解決できる――そういう気配が漲っていたのです。
新選組は暴力組織と呼ばれます。そこは否定しません。
新選組と敵対した長州藩士はじめ、尊王攘夷派も暴力的でした。これも、否定できないことです。
特定の組織や個人だけを極めて暴力的で例外的であったと特別視すると、幕末という時代はわかりにくくなりますので、注意が必要です。
新選組とは暴力的な集団ではありましたが、彼らを必要とするほどの治安悪化と、攘夷というテロ行為横行も忘れてはなりません。
攘夷志士と新選組は、いわば共存関係でした。
池田屋での沖田は?
モチベーションが落ち込んでしまうほどであった新選組ですが、幕末の政局において存在感をます事件が発生します。
【池田屋事件】です。
新選組といえば同事件ばかり取り上げられる傾向があり、本質が見えにくくなります。
池田屋事件は、政治的な抗争である【八月十八日の政変】と【禁門の変】の間にあったことが重要でしょう。
禁門の変(蛤御門の変)が起きた不都合な真実~孝明天皇は長州の排除を望んでいた
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新選組の強引な拷問による冤罪取り締まりである――そんな解釈もされてきました。
孝明天皇誘拐計画の真偽はさておき、政変からの返り咲きを狙い、何らかの事件計画があったのではないかということは、指摘されるところです。
孝明天皇の生涯を知れば幕末のゴタゴタがわかる~会津に託した宸翰と御製とは?
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大河ドラマでもおなじみのこの事件、2013年『八重の桜』が最新鋭かつ妥当な描写だったと思われます。
新選組を預かる会津藩としては、彼らの活躍は支持せねばならない。
とはいえ、話し合いを放棄して凄惨な暴力で解決することは、事態の悪化を招くことではなかったか?
ヒロインの兄であり先進的な思想を持つ山本覚馬の愕然とした反応。
そんな覚馬を甘いと軽蔑的に見る斎藤一。
そうした表現で、多層的な要素を示していました。
本稿で取り上げる沖田総司の見せ場となったのが、この凄惨な事件です。フィクションでおなじみの展開がそこにはあります。
拷問で五寸釘を相手の足の裏に打ち込む土方。
祇園祭の笛の音が響く中、池田屋へ殺到する新選組隊士。
映像作品では浅黄色の羽織着用がお約束の新選組は、史実において黒装束だったとされております。
彼らが池田屋に出向き、
「御用改である!」
と、近藤が一喝すると、少人数でありながら隊士たちが殺到します。
かくして始まった、血まみれの激闘!
沖田総司は、結核のため喀血し倒れ込んでしまう!
実は、この沖田の昏倒は史実とみなされております。
事件後、真っ青な顔色をしながら、土方と隣あい、列の先頭に立ってフラフラと屯所へ戻っていった――そんな沖田の目撃証言もあります。
ただ、喀血というのは永倉新八の事実誤認でしょう。
当時はまだ発病前か、あるいは発病していても、倒れるほど悪化していなかったとみなす方が妥当です。
鎖帷子、鉢金を装備し、真夏の狭い室内で激しい斬り合いをすれば、熱中症になってもおかしくはありません。
沖田はその激しい性格ゆえ全力で戦い抜き、結果、倒れてしまったのではないかと目されます。
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