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【沖田総司】
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隊士たちの不和と戸惑い
【池田屋事件】と【禁門の変】での出動は、新選組の存在感を増大させます。
ファンとしては熱くなる場面ですし、新選組隊士もまさしく誇りある戦果を遂げたと思いたい局面でもありましょう。
ただ、敵対者からすれば決定的に印象が悪化した契機でもあります。
2004年の大河ドラマが『新選組!』だったとき、
「あんなテロリストを美化してどうするのか」
と、国会で取り上げられたほどでした。
隊士の中でも、もっと存在感を増したい功名心と、これでよいのかという疑問が湧いてくる局面です。
近藤勇は、周平という養子を取ろうとします。この周平は谷家の出身で、谷三十郎の弟にあたります。老中・板倉勝静(備中松山藩・第7代藩主)のご落胤(私生児)を谷家が引き取って育てていたという説も。
真偽はさておき、谷家と板倉家には何らかの関係があったようです。
近藤としては、養子縁組により、有力政治家である板倉家と縁故を結びたい気持ちはあったわけです。
土方との対比もあってか。今度はフィクションにおいて愚鈍で俗物的である面を強調されることもあります。しかし、そう単純な人物でもないと考えた方がよいのではないでしょうか。
この周平の嫁とするための養女・コウを、近藤は迎えていました。
この養女が沖田に惚れ、周平との結婚を拒んだという逸話もありますが、詳細と真偽のほどは諸説あるとしておきましょう。
近藤は自分がトップに立つ組織をここまで育て上げ、野心が芽生えていたわけです。のちに永倉新八や原田左之助が不満を募らせた一因は、このあたりにあるのでしょう。
一方で、新選組に対して疑念を募らせる隊士も出てきます。
新選組の体質があまりに酷かったという解釈もできます。確かに厳しい規則はありましたが、幕末という事情を鑑みる必要ありそうです。
この不安定な世の中を憂い、変えていきたい!
そのためにはどうすべきか?
天皇の意思を尊重すべきか?
あくまで武士は幕府を守るために動くべきなのか?
攘夷思想を貫くべきなのか?
洋式を取り入れるべきなのか?
藩や立場は違えど、幕末は常に選択をつきつけられておりました。
新選組のような下級武士だけの話ではなく、典型例としては、孝明天皇の信任と、藩祖・保科正之の教えに引き裂かれた会津藩主・松平容保もおります。
新選組がただの浪士、警備集団だけでなくなり、政治性を帯びてゆくことで、この疑念が強まってゆく人物も出てきます。
それが山南敬助(やまなみけいすけ)です。
フィクションでも人気が高く、彼が自害したことは確かです。ただし、そこに至るまでの動機に諸説があり、断定が難しい。
◆長期病気療養をしていた
◆結果、隊の幹部でありながら活躍ができないことに、引目を感じていた
◆文を嗜む教養人であり、新選組の変わりゆく体質にストレスを溜めていたようだ
◆土方と相性が悪く、多摩時代から「あいつはろくなもんじゃねえ」と、土方は山南を嫌っていた
◆暴力の連鎖、屯所移転、勤皇思想との兼ね合い等……
山南は元治2年(慶応元年)、自死を選びました。
しかし、不明瞭な点も多いのです。
・脱走したのか? 証言が複数ありハッキリしない
・脱走し、大津で追いつかれたと言うが、事前に病気療養のために大津にいたことも考えられなくもない
・別れを惜しんだ女性とされる明里は、創作説が有力
山南敬助は沖田より序列がひとつ上であり、同時期に病気療養していたという共通点があることは確かです。
ただ、沖田本人と山南敬助の関係性は、誇張があると考えた方がよいかもしれません。
ここで、山南の死と時期がそう遠くないある日の沖田総司の姿を証言からたどってみましょう。
沖田総司が相変わらずのさのさして、無駄口をきいて歩いていました。父(源之丞)の顔を見ると、「八木さん、(近藤)先生がどうも顔から火が出るッていっていましたぜ」と、愉快そうに笑っていました。(『壬生ばなし』八木為三郎の証言)
沖田は冗談が好きで明るい性格の人物として、記憶されていました。子ども好きで性格が明るかったという証言もあるのです。
口調はべらんめえ、江戸っ子らしいものであったとうかがえます。白河藩の「べえべえ」という口調は、あまり好きでなかったそうです。
近藤の野心や気の大きさの現れとして、女性を休息所に囲ったこともあげられます。
かつてはストイックに不美人な妻・ツネを敢えて選んだ近藤ですが、そうした姿勢は変わっていったようです。
沖田がこうした女性宅で療養したこともあったようですが、こうした関係性を「上司の愛人宅」と現代的に考えることはやめておきましょう。
幕末当時の人間関係は、現代とは異なるものです。
前述の通り、沖田にも縁のある女性がいたようではありますが、近藤ほどはっきりとした記録はないようです。
証言から見えてくる沖田は、竹を割ったように明るく、めっぽう強く、カラリとした性格の青年像です。
斜陽の日々
元号が慶応年間となりますと、新選組の歴史に影が落ち始めます。
新選組は幕府と会津藩の下部組織であり、上の勢いが翳ればそうなるのは不可避です。
それでも彼らの戦いは続きます。
なまじ新選組は有名であるだけに、彼らが関与していない乱闘や殺傷事件でも、責任を押し付けられ、不明点が多い。
それでも沖田含めて隊士が事件に関与し続けたことは確かです。
もっとも、かつて彼らの犯行とされた坂本龍馬殺害は、現在では否定されています。
指示者は松平容保であり、実行犯は見廻組とされています。
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そうした京都での隊内での活動は活発でも、幕府権威の失墜ゆえに実現できなかったこともあります。
最大のターニングポイントは【長州征討】の不完全燃焼でした。
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あれさえ完遂していれば倒幕は回避できたのではないかと、明治になってからも幕臣が振り返っているのです。
そんな激動の慶応3年(1867年)、沖田総司自身の命も転換点を迎えます。
無駄口を叩き、京都でも試衛館のことを思い続ける、そんな明るい沖田。病状悪化がはっきりと認識され記録されるようになったのは、この年のことでした。
幕府の命運が差し迫ってゆく中、一人の青年も死へと直面していきます。
新選組幹部が幕臣に取り立てられてゆく中で、彼は命の終わりと向き合うことになるのです。
秋の御陵衛士を始末した【油小路事件】に、永倉新八と斎藤一は出動しています。
もしも沖田が健康体であれば、彼もいたことでしょう。しかし、もはや彼にはそれだけの体力はありませんでした。
それどころか御陵衛士は病気療養中の沖田殺害を狙っていたという記録もあります。されど、叶わないと悟ると、標的を近藤勇にシフト。かくしてこの年の暮れ、近藤勇は狙撃により負傷するのです。
激怒した沖田は、襲撃犯を全員始末してやる!と息巻くものの、叶わぬ望みでした。
年が明け【鳥羽・伏見の戦い】において新選組を含めた幕府軍は大敗を喫します。
新選組隊士は、富士山丸に乗せられて、江戸を目指して海を揺られてゆく。
ここでも沖田は、寝たきりでありながら冗談を言い、笑ってばかりいました。
「笑うと、あとから咳が出ていけねえなぁ」
そう沖田が語るのを聞き、近藤は驚きました。
あの若さで、ああも死に対して悟りきっているとは珍しい――妻にそう語り残したそうです。
最期のとき
江戸に辿り着いた新選組には、さらなる困難が待ち受けていました。
西郷隆盛と会談した勝海舟にとって、敵意を煽り立てる新選組は邪魔な暴力装置でしかありません。そこで【甲陽鎮撫隊】の名目をつけて江戸から追い払います。
新選組はここで大敗を喫し、永倉新八や原田左之助は近藤を見限りました。
沖田はそうした騒動に参加すらできません。
途中で立ち寄った佐藤彦五郎邸では、相撲の四股を踏んでアピールしたという証言もありますが、無理をしていたのです。日野から先は、ついていくことすらできなくなりました。
幕臣である医師の松本良順に匿われ、療養するしかない。もはや戦えぬ沖田は、新選組隊士たちと別れる他なかったのです。
姉・ミツと林太郎は、転戦し庄内藩へ向かっており、弟の見舞いもできない状態。
沖田は孤独でした。
2月になり、江戸でも梅がほころび、春が迫る中。沖田は千駄ヶ谷・植木屋平五郎の家に移ります。
彼にとって、短い命を終える場所でした(以下のマップは伝・沖田総司逝去の地となります)。
ここで黒猫の話に触れておきましょう。
沖田の死の数日前、黒猫を斬ろうとして斬れないと嘆き、そのまま倒れて亡くなったというものです。
これは創作であるとされています。
◆黒猫が不吉という印象は、西洋由来ではないか?
→化け猫伝説はありますが、招き猫伝説もある。黒猫を不吉なものとみなすのは、明治以降のイメージが根強い
黒猫はむしろ病気療養に効くとされており、その願いを込めて飼育した可能性があります。
そうだとすると、殺す必要はありません。効かないから八つ当たりで斬るというのはありえますが。
◆肺結核を悲劇的とするのはいつからか?
→これも明治以降、徳冨蘆花の『不如帰』といった文学由来でもある。黒猫は、そんな悲劇的イメージを演出する小道具的存在
沖田総司は夏の暑さの中、5月30日(新暦7月19日)、短い生涯を終えました。
享年27。
近藤勇よりやや遅れ、土方歳三が函館で戦死するよりも前のことでした。
近藤勇の刑死を、病床の彼には伝えられなかったとされます。
沖田総司が最期まで気にかけていたことは、黒猫ではなく、近藤勇狙撃犯を斬ることでした。
「虜輩を斬るにあたりては、万(すべ)て狩るのみ――」
くだらぬ者を斬るのであれば、全て狩るだけだ!
死の直前まで、近藤勇襲撃犯を罵る言葉を口にしていたと伝わります。
稽古をつけてもらう者が恐れるほどの気の強さは、最期の時まで沖田総司に残されていたのです。
★
フィクションでは、儚げな美青年としての印象が強い沖田総司。
短い生涯であるだけに、写真もなければ本人が語り残すこともなく、イメージの修正も難しいようではあります。
そうしたイメージを取り払うと、そこにあるのは等身大の青年像があります。
冗談を好み、血気盛んで、死を悟るようで、近藤の仇討ちのために生きたいと願う――そんな人物。
あまりに血腥い人生であることは確かですが、幕末という時代を考慮すれば仕方のないことでしょう。
動乱の時代を生きた青年像は、色あせることなく、現在まで伝わっているのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
相川司『沖田総司 新選組孤高の剣士 (中公文庫)』(→amazon)
菊地明『新選組一番組長 沖田総司の生涯 (新人物文庫)』(→amazon)
平野勝『多摩・新選組紀聞』(→amazon)
『国史大辞典』
『角川日本史辞典』
他