平岡円四郎

幕末・維新

平岡円四郎はなぜ暗殺されたのか? 慶喜の腹心で栄一の恩人だった侍の最期

大河ドラマ『青天を衝け』で一風変わった江戸の侍が登場していました。

堤真一さんが演じた平岡円四郎です。

まるで時代劇にでも登場しそうな浪人タイプのキャラクターで、一見、大河には似つかわしくなく、もしかして「オリジナルキャラ?」と感じられた方がいたかもしれません。

平岡円四郎は史実の人物です。

しかも、ドラマで描かれたように一風変わった性格をしており、本来ならばもっと広く名前を知られてもよい存在のはずなのに、歴史からこつ然と名を消します。

元治元年(1864年)6月16日に暗殺されてしまうのです。

いったい彼に何が起きたのか?

徳川慶喜渋沢栄一を繋いだ侍・平岡円四郎の生涯を振り返ってみましょう。

 

変人と言われた平岡円四郎

平岡円四郎は文政5年(1822年)、江戸の下谷練堀小路(したやねりべいこうじ)で生まれました。

父は岡本近江守という旗本。

その四男だった円四郎は家督を継げず、天保9年(1838年)、平岡文次郎に養子入りすることになります。

当時の円四郎は周囲に「変人」と囁かれていました。

キレすぎる頭脳の持ち主で、周囲がついていけなかったせいでしょうか。

あるいは人づきあいが悪かったことも影響したのでしょう。

しかし、文次郎と交流のあった川路聖謨(としあきら)がその才覚を見抜き、水戸学の重鎮・藤田東湖にそれとなく人物評を伝えておりました。

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後の15代将軍・徳川慶喜が、一橋家へ入ったのはちょうどこのころです。

若干11歳という若さゆえ、一橋家内では教育係がつけられ、当初は中根長十郎という人物が家風に基づいた指導を行っていました。

ところがこの長十郎、徳川家の名門・水戸藩からやってきた後継ぎに対し、若干、遠慮気味なところがあったよう。

成長していく慶喜には物足りなく感じられたのか。

嘉永6年(1853年)には水戸藩の徳川斉昭らに対し、「ストレートに思いを話してくれる人物」を求める書状を書き送っています(慶喜は当時17歳)。

彼の意向を受けて、斉昭は最適な人材を探しました。

そこで、かねてから噂を耳にしていた藤田東湖が、円四郎を斉昭に推薦。

この進言を採用したことで、彼は一橋家に小姓として仕えるようになったのです。

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文政5年(1822年)生まれの平岡円四郎と天保8年(1837年)生まれの徳川慶喜。

15も歳上の小姓でした。

 

ぶっきら棒な様を逆に気に入った慶喜

我々の感覚からすれば、後に将軍となる人物に仕えることができたというのは、かなり喜ばしいように思えます。

実際、当時としても十分に名誉な職業だったハズです。

しかしながら、円四郎はこの知らせをあまり好ましく思っていませんでした。

理由は、一橋家仕官によって円四郎の思い描いた出世プランと少しズレてしまったからです。

当時、彼は旗本の出世コースであった「勘定方(会計)」の方面に立身の堵を求めていました。一橋家の小姓となってしまっては目標から遠ざかってしまうのです。

確かに名誉な地位であった一方、円四郎にとって望んで就いた職ではありません。

そのため、慣れないことの連続で時には乱暴な振る舞いにおよぶこともあったようです。

しかし、彼のこうした面は、本音を求めた慶喜に「まさに求めていた人材だ!」と捉えられました。

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すっかり気を引かれた慶喜は、無礼にも思える円四郎の振る舞いを咎めるどころか、自身への近侍に必要な知識を自ら教えたというのです。

『青天を衝け』でも、ごはんのよそい方を慶喜が丁寧に教えていましたね。

この一件で円四郎は慶喜の聡明さを知り、心を尽くして仕えるようになったといいます。

一方の慶喜も、聡明で学問を好む円四郎を重用しました。

 

将軍継嗣問題

円四郎が慶喜に仕えた嘉永6年は、幕府どころか日本史の中でも極めて重要な一年でした。

6月にはペリーが浦賀へ来航。

加えて12代将軍・徳川家慶の死と次期将軍・徳川家定の病弱さから後継者問題が浮上し、慶喜の存在が注目されるようになっていたのです。

彼の将軍就任を支持する勢力もおり、福井藩主・松平慶永を中心に活発なロビー活動が展開されました。

慶喜の将軍就任を目指す勢力は「一橋派」と呼ばれ、当然ながら側近の円四郎もその一人。

慶永の命令によって慶喜の優れた功績をまとめあげ、かの徳川家康にも劣らぬ聡明な人物であることをアピールします。

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円四郎はこの過程で、数多くの福井藩士らと交流をもつようになり、彼が開国派に転じる要因にもなったと考えられます。

しかし次の将軍は……。

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