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【長野主膳】
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長野主膳の国学思想
ここで、ちょっと引っかかった方もおられるでしょう。
「井伊直弼と長野主膳は、朝廷をないがしろにして、倒幕派を一掃したがったのでしょ?」
「だから“安政の大獄”を引き起こしたのでは?」
「なのに皇国を作るっておかしいですよね」
実はそう単純な話でもありません。
井伊直弼の思想の根底には、長野の唱えた国学があります。
それは、以下のような考え方でした。
・幕府を倒して朝廷に政権を返還する「革命論」ではない
・ただし、天皇を中心とした国作りを行わねばならない
・神意により武家の世が訪れたのであり(徳川幕府の肯定)、その政権は朝廷との合意によって幕府へ委任されたものである。つまり委任された時点で朝廷の意見は幕府と一致するものとしてよい(「幕府の意見=朝廷の意見」)
神意によって武家に政治が託され、朝廷も同意しているから「幕府の意見=朝廷の意見」という思想なのです。
つまり、直弼の中では天皇を疎んじる気はサラサラなく
【朝廷に託されたからには、最善を尽くさねばならない】
という責任感があったのですね。
後に直弼の強引な態度は、朝廷をないがしろにしていると批判されますが、そもそもが朝廷から幕府に政治が託されている以上、そんなことはない――それが井伊直弼の考えでした。
熾烈な朝廷工作
時代は流れまして嘉永6年(1853年)。
同年の黒船来航に端を発した外交問題は、幕府内において深刻な対立を生み出します。
・現実的な開国を主張する……井伊直弼・堀田正睦
これに対し、
・無謀な攘夷を主張する……徳川斉昭
両者の対立は、激しいものでした。
これを仲裁できそうなのは老中首座・阿部正弘ぐらいのものでしたが、すでに亡くなってしまい、もはや争いは止まりません。
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堀田は徳川斉昭を幕政から追い出しました。
怒りを抱いた斉昭は、虎視眈々と復讐の機会を狙い、その機会は、意外と早く訪れました。
1858年、アメリカ側のハリスと交渉を詰めた日米修好通商条約。
その締結について朝廷から勅許を得ようとした堀田は、京都に入りました。
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そこで待ち受けていたのは、水戸斉昭の息のかかった公家たちです。
彼らはほぼ全員、開国がどういうことか理解すらなく、まったく話が通じません。
判で押したように「ともかく異人は嫌どす、攘夷しとくれやす」の一点張りなのです。
堀田は力尽き、何の成果も得られないまま、疲れ果てて江戸に戻りました。
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そんな京都で、長野主膳も動いていました。
痛恨だった【戊午の密勅】
長野は井伊家に仕える前、京都にいたことがありました。
九条家に仕えていたのです。
妻の多紀も今城家に仕えたことがあり、長野の妾となった村山たかも、京都に人脈がありました。
九条家に仕える青侍・島田左近正辰とも、交流しています。
こうした長野の人脈は【安政の大獄】前夜にも活用されたのでしょう。
関白である九条尚忠(ひさただ)を味方にしていたのです。
孝明天皇はともかく異人嫌いであり、条約締結については怒り心頭でした。
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そんな彼に出来る抵抗手段は譲位です。
孝明天皇の意を受けた九条尚忠は、公卿たちに意見を求めることにしました。
すると、水面下で、
・左大臣 近衛忠煕
・右大臣 鷹司輔煕
・内大臣 一条忠香
らがあることを画策しておりました。
関白・九条尚忠の裁可を得ないまま、要は天皇が勝手に、幕府を詰問(批難)する勅書を水戸藩に下していたのです。
これを【戊午の密勅】と呼び、長野は驚愕するしかありませんでした。
京都に滞在している自分の耳に全く情報が入らないまま、密勅が降されてしまったのです。
怒り、屈辱感、失態をいち早く挽回せねばならない!
そんな焦燥と同時に……長野は主君である井伊直弼に報告しました。
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