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【高松凌雲】
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「降伏するよう勧めてくれないか」
また、兄の佐久左衛門も旧幕府軍の一人として箱館戦争に参加しており、重傷を負った後に亡くなっています。
もしかしたら凌雲が治療し、看取ったのかもしれません。
実は、佐久左衛門が負傷してから亡くなるまでの間に、新政府軍から凌雲に「榎本武揚に降伏するよう勧めてくれないか」という使いも来ております。
新政府軍に凌雲の治療方針が伝わり、アテにできると思われたのでしょうか。
凌雲はその通りに武陽を説得にかかりましたが、返答は「私の持っている貴重な洋書が失われるのは惜しいから、新政府軍にお譲りしよう」というもの。つまりNOです。
本だけじゃなく自分の命も惜しめと。まあ「命を惜しむな、名を惜しめ」が武士の常識だから仕方ないといえば仕方ないですがね……。
最終的に新政府軍の黒田清隆が「優秀な人材を死刑にしてしまっては、これからの日本のためにならない」と主張したことで、凌雲も武陽も助命されました。結果オーライ。
政府には入らず鶯渓病院を設立
凌雲は江戸改め東京に戻り、政府には入らず鶯渓病院を作ります。
今度こそ、かつてフランスで見たオテル・デュウの日本版を作ろうとしたのです。
治療費が払えない人については無料で診察しました。
しかし、一人でできることには色々と限界が出てきて、他の医師に協力してもらう方法を考えます。
そして明治十一年(1878年)に「貧しい人々を無料で診る会を作ろう」と医師たちに呼びかけました。
運良く多くの医師から同意を得ることができ、翌年「同愛社」という団体を作り、貧民救済のためにより大きな規模で活動できるようになります。
この前年には西南戦争をきっかけとして、
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日本赤十字社の前身である博愛社が設立されていました。
なぜ凌雲がそちらに合流しなかったのかについて少々疑問ですね。
貧民救済と戦傷者の救命という目的の違いや、距離による情報伝達の差によるものでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
高松凌雲/wikipedia
日本赤十字社北海道支部(→link)
一般社団法人小郡三井医師会(→link)