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【幕末の篤姫と西郷隆盛の関係】
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まるで存在を否定されたかのように
上野戦争で完膚なきまでにやられた彰義隊。
徳川の忠臣が粉砕され、篤姫の心痛はいかほどだったか……。
さらに篤姫は、寛永寺に攻撃が加えられたことにも怒っていました。
寛永寺は天皇の宸筆(しんぴつ)による額が掲げられ、住職は皇族です。
そんな天皇家とのゆかりが深い、他の寺とは違う寛永寺を攻撃するとは、朝敵そのものではないか、と。
聡明な彼女は、新政府軍の持つ怪しさを喝破しておりました。
彼女の怒りは、特に薩摩島津家へ向けられました。
実家だからと頼った依頼をつっぱねた、そのふるまいに我慢ならなかったのでしょう。
徳川と島津をつなぐために嫁いだ身としては、自身の存在を全否定されたような気分になったとしても、おかしくはありません。
実際、この後も望みを捨てきれない篤姫は、奥羽越列藩同盟の指導者たちに接触をはかり、巻き返しに一縷の望みを託します。
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しかし、伊達藩などを中心にしたこの同盟も新政府軍に敗北し、徳川巻き返しという彼女の希望は木っ端微塵に砕かれてしまいます。
島津家の支援を断り、幼主・家達の養育に尽くす
その後、篤姫は、実家島津家からの支援を一切断りました。
慶喜らが駿河に向かった後も江戸に残り、徳川家の奥向きを取り仕切ります。
そして篤姫は大奥から出た時点で侍女のほぼ半数に暇を出し、かつての絢爛豪華な日々とはまったく違う、質素倹約を旨とした生活を送るのです。
唯一の生きがいは、幼主・徳川家達の養育に尽くすこと。
明治16年(1883年)、47歳で亡くなるまで、彼女はあくまで徳川の御台所として生き、亡くなっております。
こんな経緯では、万が一篤姫が結婚前の若い頃に隆盛へ恋心を抱いたとしても、幕末の混乱期には百年の恋も醒めたことでしょう。
少なくとも江戸城の無血開城時には、相当なストレスがあったに違いません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考】
安藤優一郎『大奥の女たちの明治維新 幕臣、豪商、大名――敗者のその後 (朝日新書)』(→amazon)
ほか