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【落語の歴史】
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東京でも上方でも熾烈な派閥争いが起きた
明治10年代にもなりますと、東京でも上方でも、落語の派閥が出来てきます。
東京
柳派:初代談洲楼燕枝が中心 / 洗練され、洒脱な芸風
三遊派:初代三遊亭圓朝が中心 / 派手で明るい作風
上方
桂派:初代桂文枝中心
三友派:初代月亭文都、初代笑福亭福松、二代目桂文圓治、三代目笑福亭松鶴らが結成
こうした派閥争いは、互いの切磋琢磨に繋がりました。
分裂や争いはあったものの、結果的に優れた芸を目指すモチベーションにも繋がりました。
「大阪落語を滅ぼしたのは、この私です」
時代が大正を迎えると、落語は陰りが見えるようになります。
東京では、さしもの桂派と三友派も、次第に飽きられてきました。
そこで新味を持たせるため、落語家も東西交流するようになりったのです。交通機関も発達したため、行き来が楽になったということもあるでしょう。
すると上方お笑い界に、大きな変化が起こります。
桂派は、中心人物であった桂文枝が亡くなると衰退し、三友派に吸収され消滅しました。
その一方で、岡田政太郎率いる「反対派」が台頭してきました。「反対派」は、落語以外の「色物」(落語以外の芸能)を重視する一派です。
三友派も一時の勢いを失ってゆく中、なんとかして反対派の攻勢に対抗する状況でした。
そこへ現れたのが「吉本興業」です。
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天満の寄席「第二文藝館」から始まった吉本夫妻の寄席は、急速に発展し、反対派と手を組みます。
そして彼らは、岡田政太郎の死後、反対派を引き継ぎ、勢いは更に増して三友派もついに吸収。
上方の芸能界は、「吉本花月派」の一人勝ち状態となるのです。しかし……。
時代が下ると吉本興業は、落語を軽視するようになります。
“後家殺し”と呼ばれ絶大な人気を誇った初代桂春団治の死後、彼らは漫才に傾倒。
それだけでなく上方落語を保護する態度を一切取りませんでした。
「大阪落語を滅ぼしたのは、この私です」
後年、創業者・吉本せいの弟で、吉本興業を率いた林正之助は、そう語っています。
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速記本、レコード、ラジオの流行
東京では、大正12年(1923年)の関東大震災により、壊滅的な打撃を受けました。
多くの落語家が犠牲になり、寄席も焼失。そのため、当分の間興行が行われなくなってしまいます。
吉本興業ではこの時期、熱心に東京から落語家を招き、復興に貢献しました。
震災が江戸の風情を破壊した一方、新たな技術が世の中に変化をもたらします。
速記本、レコード、ラジオです。
「速記本」とは、落語や講談を聞き取って速記したもの。速記本やレコードは、寄席に足を運ばなくても落語が楽しめるものとして、人気を博しました。
ラジオに関しては、当初の興行側は、いたく警戒心を抱いていました。
タダで落語が聞けるのならば、客はわざわざ寄席まで足を運ばない。そう危惧したのです。
前述と時代が前後しますが、昭和5年(1930年)には、桂春団治が所属先の吉本興業に無断でラジオに出演し、業界内では大きな騒動となるのです。
しかし、結果は出演OKで一件落着。
客を減らすどころか宣伝効果があるとみなされて、和解に至るのでした。
戦争の影響で遊郭などのネタが自粛され「はなし塚」が作られる
明治大正を経て昭和へ。
落語の人気はますます高まったものの、強烈なブレーキがかかることになります。
昭和15年(1940年)、大政翼賛会発足の際、「日本芸能文化連盟」が設立されました。これをキッカケとして、落語も時勢をかんがみて再検討する動きが出てきたのです。
要するに自粛です。
昭和16年(1941年)、浅草本法寺(→link)に「はなし塚」が建立されました。
時勢にそぐわない「情痴、遊郭、不義密通」等をテーマとした53演目が禁止となり、それら演目の墓として作られたのです。
こうなってしまってはツマラナクなるのは必定。当局の禁止を待つまでもなく、落語は萎縮してしまいます。
落語家たちも戦争とは無縁ではいられません。
慰問隊や兵士として、戦線に向かうようになり、アメリカ軍の空襲は寄席を焼き尽くし、落語家の晴れ舞台をも奪います。
戦争は人々から笑顔を奪い、笑いをも焼き尽くしました。
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