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【落語の歴史】
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戦後:ラジオ落語とテレビ大喜利の時代へ
戦後――。
辺り一面が焼け野原になり、食べる物にもこと欠き、親を失った孤児たちがうろついているような状況。
そんな最中でも、人々は焼け残った寄席に、吸い寄せられるように向かいました。
なにせ昭和20年(1945年)8月15日の終戦から一ヶ月後には、焼け残った寄席に人々が溢れかえっていたほどです。
昭和21年(1946年)には「はなし塚」に葬られた演目の復活式も行われました。
遊女も間男も、落語の演目の中に蘇り、戦時中に統合された落語団体も復活しました。
いよいよ本格的な復活です。
昭和26年(1951年)、放送法が成立しました。
ラジオ&テレビ落語の時代幕開けです。
セットもいらない。
バンド演奏も不要。
おまけに人気もある。
落語家たちはラジオ番組からしょっちゅうお呼びがかかり、懐もずいぶんとうるおいました。
ラジオをつければ落語が流れてばかりいる、そんな時代です。
一方でテレビの場合、わいのわいのと騒ぐような演目の方が人気でした。
皆さんご存じの昭和41年(1966年)放映開始された長寿番組『笑点(→link)』の大喜利コーナーが有名ですよね。
テレビ世代にとっては大喜利の方がよく知られているかもしれません。
落語の黄金期到来&上方落語の復活!
昭和30年代から40年にかけては落語黄金期とも呼ばれます。
愛される名人たちが出る一方、落語は変貌してゆきました。
落語といえば寄席というのは、今や昔のこと。ラジオであり、テレビであり、そして演芸ホールになってゆくわけです。
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一方で、上方落語は、東京より厳しい状況であがいていました。
前述の通り、吉本興業の隆盛と反比例するように勢いを失ったのが大きいのです。
寄席も戦中に焼け落ち、戦後上方落語を復活させようにも落語家は10人程度という惨状。
戦後もベテランが相次いで亡くなり、上方落語は滅亡の危機に瀕しておりました。
そこで出てきたのが「上方落語四天王」と呼ばれる落語家たちです。
彼らの奮闘で人気も戻り、吉本興業にも落語家が所属するようになります。
当代・笑福亭仁鶴は、吉本興業を代表する売れっ子です。
彼がブレイクしたのは、ラジオパーソナリティとして若者の間で人気を集めたのがキッカケでした。同じようにラジオやテレビの司会者等、本業とは別のところで活躍する落語家も増えたのです。
2017年大河ドラマ『おんな城主直虎』で、当代・春風亭昇太が今川義元役を好演したことは記憶にも新しいところですね。
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伝統的でありながら、常に新しい 変貌する落語
江戸時代から日本人を楽しませてきた落語。その変貌が著しいことは、皆さんも実感しているのではないかと思います。
落語を楽しむ環境も、変貌を迎えています。
YouTubeの落語チャンネル、スマートフォンのポッドキャストで楽しむ方もいることでしょう。
あるいはテレビドラマの『ちりとてちん』や『タイガー&ドラゴン』。
漫画の『落語天女おゆい(→link)』、『昭和元禄落語心中(→link)』。
落語をじっくりと聞いたことはなくても、テーマとした作品を楽しんでいたり、落語家の出るテレビ番組を見ていたり。日本で暮らしている以上、ドコかで必ず触れているものです。
伝統的でありながら、常に新しい――それが落語の魅力ではないでしょうか。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
山本進『図説 落語の歴史 (ふくろうの本)』(→amazon)
【参照サイト】
公益法人落語芸術協会(→link)