津軽信明

津軽信明/wikipediaより引用

江戸時代

隠れ名君・津軽信明の跡を継いだダメ藩主~あと一歩でヤバかった幕末の弘前藩

政治というのは、一朝一夕に効果が出るものではありません。

ときには数十年、あるいは100年先のことを考えて行わなければならないこともあります。

本日はそんな感じで、江戸時代の後半に、とある藩が陥ったすったもんだの経緯をみていきましょう。

明和二年(1765年)1月17日は、後に弘前藩第九代藩主となる津軽寧親(やすちか)が誕生した日です。

元は津軽家・分家の生まれでしたが、少々込み入った事情があり、本家の家督を継ぐ事になりました。

その辺の経緯から、時系列順に話を進めて参りましょう。

 

35万両の借金に加えて天明の大飢饉

時を遡ること50年ほど前、七代藩主・信寧(のぶやす)の頃のことです。

弘前藩はもともと豊かな土地とはいえない地域である上に、度重なる飢饉で荒廃しきっており、35万両もの借金を抱えていました。

しかも苦しいときほど良からぬことを企む輩が出てくるもので、重臣の中に米の買い占めと江戸への売りつけで大儲けしている連中がいることがわかり、内憂外患という言葉そのままの状況になってしまいます。

その上、襲いかかったのが【天明の大飢饉】。弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂どころではありません。

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信寧は、これを何とかすべく改革に着手しようとしました。が、その直後に亡くなってしまいます。なんというタイミングでしょうか……。

そんな父の無念を晴らすべく、八代藩主となったのが息子の津軽信明です。

信明は幼少期から英邁といわれており、さらに内政手腕で世に聞こえていた細川重賢上杉鷹山松平定信らと親交を持ち、見識も広めておりました。

自らの才知に奢らず、他者からさらに学ぼうというあたり、本当に頭のいい人という感じがしますね。

そうしてさまざまな知識を得た信明ですから、当然大胆な改革を行いました。

中でも珍しいのは、藩士に帰農を勧めたことです。

信明はこう考えたのです。

武士が全く生産活動をせずにいるから、いつまで経っても米が足りずに窮乏するのではないか?

それなら、武士も自ら鍬を取って米を生み出すようにすれば、米が足りなくなるようなことにはなるまい。

農民も逃げずに働いてくれるようになるはずだ。

 

家臣も農作業に従事して1万人の食料ゲット

戦国中期までの武士といえば半農半士のほうがスタンダードでした。

ですので、信明の方針は”改革”というよりは”回帰”といったほうが近いかもしれません。

しかし、兵農分離から相当な期間が経過していたこの時代、武士に「鍬を取れ」といっても、なかなか従おうとする者は出てきません。

信明は無理をせず「ならば希望する者だけでよい」とし、しばらく様子を見ることにしました。

そしてそのうち信明の方針に賛同する武士も増え始め、放置されていた田んぼや畑のうち1000町ほどで収穫が見込めるようになりました。

1町=1ヘクタール(100m×100m=10,000㎡)くらいで、1町からは10石程度の米が穫れるとされています。

1石=一人が一年で食べる米の量ですから、「1000町の田畑で収穫できるようになった」ということは、単純に考えて「1万人分の食糧が生産できるようになった」ということになります。

実際の生産高はこれより少なかったかもしれないにせよ、かなりの人が餓えをしのげるようになったことは間違いないでしょう。

また、武士が帰農したことによって農民の苦労がわかり、税の取り立ても多少は優しくなったのではないでしょうか。希望的観測ですが。

 

西津軽地震で人的被害が少なかったのは……

信明は他にも出費の削減や食料備蓄、藩校の設置などを積極的に行い、弘前藩を立て直していきました。

しかし、不幸にも信明は30歳の若さで突如亡くなり、改革は頓挫……といったところで、九代藩主になったのが寧親です。

寧親も、当初は信明の路線を引き継いで改革を続けていました。

しかし、分家から養子に入ったこともあってか、思うように進みません。

その矢先、西津軽地震で大きな被害を受けてしまうのです。

震源地側だった西津軽地域ではかなり大きな津波にも襲われました。

「天明の大飢饉で人口が激減していたから、西津軽地震での人的被害の記録が少ないのでは?」と目されているぐらいですから、規模としては相当のものだったのでしょう。

一方で蝦夷地の警備も行い、その功績を幕府に認められて10万石に加増されました。

しかし、領地が増えたからと行って、ラクになるとは限らないのが大名家の悲哀です。

◆領地が増える

◆仕事が増える&家格が上がる

◆それに見合った振る舞いをしなければならなくなる

◆出費が倍増

そんな悲しいコンボがキマってしまうんですね。

しかも、不足を補おうとして増税してしまったため、農民に一揆を起こされてしまいました。

自分も財政改革に取り組んで失敗したばかりなのに、その状態で税を増やしたらどうなるか……とか考えなかったんですかね。

 

家老が諫死しても「遊興は余の病である」

寧親の跡を継いだ信順(のぶゆき)は、さらにどうしようもない殿様でした。

飢饉・地震・一揆で荒れまくった領内を尻目に遊興三昧。

見かねた家老が諫死しても「遊興は余の病である」とのたまう有様です。

津軽信順

津軽信順/wikipediaより引用

幸い松平家から養子入りした11代・順承(ゆきつぐ)が信明の方針に立ち返り、倹約令や経費削減などに努め、何とか弘前藩は持ち直しました。

乱暴にまとめると「藩主の家柄より養子入りした人のほうが優秀だった」ということになってしまうわけです。

しかも一度立ち直りかけたのに寧親・信順親子のせいで頓挫しているわけで、弁護のしようがありません。

戊辰戦争に間に合ったのは不幸中の幸いですかね。

弘前藩は【奥羽越列藩同盟】から新政府軍に寝返ってますが、まぁそれは時勢上仕方のないことでしょう。

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もし間に合っていなければ……最初から「ウチはお金も人も戦意もないんで降伏します。勘弁してください」と土下座することになったかもしれません。

新政府軍がそれを素直に聞いて、受け入れてくれるかというと……(´・ω・`)

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
津軽寧親/wikipedia
西津軽地震/wikipedia
津軽信明/wikipedia
津軽順承/wikipedia
津軽承昭/wikipedia
津軽信順/wikipedia

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