歌川豊国 武蔵坊弁慶のイメージ

江戸時代

歌舞伎の歴史がスッキリわかる!400年以上の伝統を持つ日本エンタメ界の王様

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寛永六年(1629年)10月23日は、江戸幕府が【女歌舞伎】を禁止した日です。

言うまでもなく歌舞伎は、現在まで続く伝統芸能としてお馴染みの芸術。

生まれて400年ほどの歴史を持ち、人間に例えると「波乱万丈」そのものな経過を経ています。

本稿では歌舞伎の歴史を見てまいりましょう。

 

歌舞伎の歴史は出雲阿国から始まった

歌舞伎は、戦国時代に「出雲阿国」と呼ばれていた一人の女性が始めたものだといわれています。

当時は「かぶき踊り」と呼ばれていて、露出度が高い服装だったり、R18的なものを含んでいたり、現在イメージされる歌舞伎とは全く違うものでした。

出雲阿国/wikipediaより引用

彼女が本当に出雲出身だったのか。
いつ頃から活動していたのか。

その辺の詳細はハッキリしませんが、少なくとも慶長八年(1603年)にはかなりの人気を誇っていたと思われます。
記録に出てくるのがこの年だからです。

しかしその後、踊り手の露出度が上がったり、観客とのオトナな関係(オブラートに包んだ表現)などが頻発したりして、「社会的によろしくない」と認識されてしまいました。

そのため女性の役者による歌舞伎が禁止され、男性の役者だけになった……といわれています。

 

男社会の江戸では客と演者が男色関係を持つように

問題は、平行して行われていた【若衆歌舞伎】でも起きました。

「若衆」とは12~18歳くらいまでの美しい少年役者のことなのですが、彼らが客と男色関係を持つようになってしまったのです。

理由の一つは、
「基本的に江戸は女性が少なかった町だった」
ことが考えられます。

江戸は徳川家が移ってきてから急速に発展させた町ですから、その住民の多くは労働力である男性でした。

武家やその屋敷に仕える下働きの人間も大多数が男性ですから、必然的に男社会になるわけです。

右を見ても左を見ても……という状態で、綺麗かつ女装をすることもある役者とお近づきになりたいと思ったり、実際に親しくなったりするのも、不自然なことではありません。

なにせ三代将軍・徳川家光も若い頃は女性嫌いで、若衆とのお付き合いを好んでいたくらいですから。

徳川家光/Wikipediaより引用

もちろん、そんな調子では人口が増えません。
幕府も武家も、その他の職の人々もとても困ります。

そんなわけで、若衆歌舞伎も禁止されたのです。

 

野郎歌舞伎を機に大きな変貌を遂げる

こうして「野郎歌舞伎」と呼ばれる、前髪を落とした(=成人した)後の男性役者による形式が確立します。
野郎歌舞伎が主流になるまでの流れには諸説あるのですけれども、ここでは省略で。

ともかく野郎歌舞伎の時代になってから、歌舞伎は大きく変わりました。役者の外見だけではなく、演技の上手さや演出で客を惹きつける傾向になっていったのです。

演技や作風については、江戸と上方で違った傾向がありました。

江戸は「荒事あらごと」と呼ばれる荒っぽいシーンや、それを得意とする役者が人気を集めていました。
御攝勧進帳ごひいきかんじんちょう」の弁慶などが当てはまります。

よく似た名前ですが、著名な「勧進帳」より古い台本のものです。

一方、上方では「和事わごと」と呼ばれる艶っぽいシーンや優美な振る舞いの役者が人気でした。

よしながふみ先生の「大奥」で生島新五郎が演じていた、「廓文章」の主役・藤屋伊左衛門などが和事の代表例です。
作中の舞台は江戸でしたが、江戸でも和事を取り入れる役者はいたそうで。

 

幕府公認の江戸四座→後に江戸三座

こうして徐々に盛り上がっていった歌舞伎は、儒教の広まりや天災などによる影響も受けました。
正保元年(1644年)には、「存命中の人名を用いてはならない」という法律ができています。

しかし、元禄十六年(1703年)には赤穂浪士もの(忠臣蔵)がさっそく作られており、作中人物の名前はテキトーにもじった程度でバレバレでした。
だからこそ、今日でも赤穂浪士の話が広く知られているわけですが。

ここまでが、江戸時代の前半部分――。

歌川国政 市川鰕蔵 暫のイメージイラスト

その後、歌舞伎が発展する中で、それを演じる場である芝居小屋は、切磋琢磨を繰り返しながら整理されます。

最終的に、幕府に公認されたのは中村座・市村座・森田座・山村座の四座(江戸四座)だけ。
このうち山村座は、お抱え役者・生島新五郎が江戸城大奥御年寄・江島と関係を持ったとする「絵島生島事件」により、永久お取り潰しになってしまいました。

結果、江戸三座になっています。

 

吉宗の時代は良かった 問題は水野の改革で

続く享保年間(八代将軍・吉宗の時代)には、歌舞伎の劇場も大きく変変化します。

それまで屋根がなかったのですが、この頃は屋根付きの芝居小屋になり、現代でも見せ場の「宙乗り」や、夜・闇の演出がしやすくなって、ストーリーにも幅が生まれました。
また、歌舞伎の舞台独特の花道やせり上げ(舞台の全体や一部を持ち上げる仕掛け)なども、この時代から登場しました。

吉宗=質素倹約のイメージが強いため、どちらかというと贅沢に近いエンターテイメントである歌舞伎が発展したのは意外な感じもしますね。

実は吉宗は、歌舞伎に限らず「芸術の類は人間に良い影響がある」と考えていたフシがあります。
白河藩主・松平明矩あきのりの病中に「音楽で気晴らしをするといい」とアドバイスしたこともあるそうですし、自身もストレス解消のためにいくつかの芸術的な趣味を持っていました。

となると、歌舞伎についても「役者あさりや連日連夜行くのはいただけないが、憂さ晴らしでたまに行く分には結構」くらいに思っていたのかもしれませんね。

ただし、次の時代【天保の改革】ではそうはいきませんでした。なぜなら……。
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