赤穂浪士討ち入り/Wikipediaより引用

江戸時代

赤穂事件=赤穂浪士の討ち入り~史実はどんな感じだったのか?

12月の歴史的な出来事といえば、やはり忠臣蔵の元ネタである元禄赤穂事件。

一昔前まではこの時期毎年ドラマなりドキュメンタリーで見かけていましたが、最近はたいした頻度でもないようで。

事件や忠臣蔵に対する世論が大きく変わってきたのでしょう。
もっと正確に言えば、当時と一昔前、そして現在では一般庶民のうち事の経緯を知っている人の割合が変わったのでしょう。

忠臣蔵はお芝居なので脚色がスゴいのは当然といえば当然なのですが、前後事情も現代人からすると「ゑっ?」とツッコみたくなる点が多すぎますからね。

というわけで、今回は元禄15年12月14日(1703年1月30日)に起きた、元禄赤穂事件=通称赤穂浪士の討ち入りについて重箱の隅をつついていきたいと思います。

日本三大仇討ちに数えられるんですが……。

特に興味がない人だと
「キラというジジイを成敗しようとした正義の大名・浅野ナントカが理不尽な切腹にあったので、家臣が仇を取りにいった話」
くらいしか覚えていないのではないでしょうか。

そもそも、このあらすじがお芝居である忠臣蔵の影響を受けすぎていますので、赤穂事件の史実的な面からツッコんでいきましょう。

 

赤穂事件の始まりは吉良と浅野のガチ喧嘩

まずは人物紹介から。
キラこと吉良上野介義央(きら こうづけのすけ よしひさ)
この人は幕府と朝廷の儀式作法を教える高家(こうけ)というお家柄の人です。

実は今川氏真の玄孫(ひまごの次の代)にあたります。
氏真は、大河ドラマ『おんな城主直虎』で尾上松也さんが演じて話題になりましたよね。

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もう一人は、浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)
現在も赤穂の塩で有名な赤穂藩(現・兵庫県赤穂市)の大名です。

領地や官位からすればさほどエラい大名ではありませんでしたが、塩田の開発を成功させるなど、領国経営もうまくできていてそこそこ人気のあるお殿様でした。

赤穂浪士の四十七名については名を挙げると夜が明けてしまいますし、本題はそこではないので割愛します。

内訳だけざっくりお話しますと、下は10代から上は70代。
生粋の武士から歌舞伎役者のような美青年、長矩とアーッ!な関係だった人までいろいろいました。

 

なぜ斬りつけたのか、それがナゾだ

で、その浅野内匠頭が、突如として吉良上野介義央に斬りかかります。

それが元禄14年(1701年)3月14日のこと。

どうして浅野が吉良に切りつけたのか?
実は理由がはっきりしておりません。

忠臣蔵/Wikipediaより引用

吉良が浅野に嫌がらせをしたとか、浅野がワイロを送ってこなかったので教えるべき作法をきちんと教えてくれなかったからだとかいろいろ言われていますが、これはお芝居上の脚色や当時の「お・も・て・な・し」ならぬ「お・つ・き・あ・い」を考えてみると当たり前という面もあるのです。

吉良家は身分や仕事は保障されているものの、給料は少なく余裕はありませんでした。
しかし仕事上衣服や道具などにお金がかかるので、公私両面の支えとして、あっちこっちの大名からの礼金・贈り物は欠かせなかったのです。

贈るほうも粗相のないよう、きちんと作法を教えてもらいたいですからそれなりに奮発もします。

これがワイロのように見えるだけで、実際には「おぬしも悪よのう」「苦しゅうない、近う寄れ」「黄金色のまんじゅうは美味であったぞ」というような、いかにも時代劇な黒い話はさほどなかっただろうと言われています。

 

浅野には精神疾患があった?

ではどうして刃傷沙汰になったのでしょうか。
これまたはっきりしていないのですが、浅野のほうに問題があったという説があります。

彼はもともと短気な性格をしており、癇癪を爆発させることも少なくなかったという記録が残っているからです。

しかも仕事の上ではクソがつくほど真面目なので、ちょっとでも家臣や侍女のミスがあると折檻することもあったとか……。

さらに、そうしたイライラで胸が苦しくなる持病を抱えていて、気分を落ち着かせるための薬を飲んでいたそうです。

精神疾患の一つ・統合失調症ではないか?
とも言われたりしますが、流石に現代医学でも数百年前の人間の精神状態までははっきりわかりません。あくまで一説です。

 

現代ならば筋違い――ツッコミ満載の仇討ち

そして浪士たちの討ち入りについては、ズバリ私怨といってもいいほど。
なぜなら、浅野の切腹は幕府がきちんと裁定して決めたものだったからです。

罪状は、江戸城内で抜刀したことと殺人未遂。
お芝居だと「松の廊下」というところだけがクローズアップされているのでわかりづらいかもしれませんが、アレって将軍がいる江戸城内でのシーンなんです。

将軍の家の中で刀を抜いたこともけしからんし、無抵抗の相手に切りつけるなど言語道断。
しかもこの日は朝廷からの使者に将軍自ら返事を出すという、とても、とても、と・て・も・大事な日でした。

そんな日にご法度をやらかした輩に対し、当時の将軍・徳川綱吉は当然激怒します。
「武士の風上にも置けん!」と即日切腹を申し付けたというわけです。

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これに対し、吉良はお咎めナシでした。
一方的な被害者だった上、江戸城内であることを鑑みて応戦しなかったからです。

「殿中でござるぞ!」は現代人だとピンときませんが、今の司法だって殺人未遂事件の被害者に責任を問うようなことは普通しませんよね。
ですから、この決定は司法的に間違ってはいませんでした。

ちなみに重臣たちも綱吉へ報告が行くのと同時進行で会議をしていますので、決して綱吉個人のえこひいきではありません。

そうした経緯を詳しく知らなかったのか。
それともわかっていて逆恨みしたのか。

赤穂の藩士たちは討ち入りを決めてしまいます。
おそらく、上記の二つの要因が半々くらいの割合だったんではないでしょうか。

討ち入りメンバーの中には当時江戸にいて、浅野切腹の報を聞くなり赤穂へとんぼ帰りした人もいますから。

「何だか良くわからんけど殿が切腹処分になった。詳しいこと知らないけど、武家は喧嘩両成敗のはずなのにおかしくね?なんで吉良は切腹しないの?」

それぐらいの概念の人もいたでしょう。
刃傷沙汰から討ち入りまでは一年以上の期間がありましたので、その間に事情を聞き知ったとしても納得できなかった可能性もあります。

 

綱吉も浅野家を許すわけにはいかなかった

そして城主の非行により、浅野家そのものが取り潰されて皆浪士になってしまうわけです。

四十七士のリーダー・大石内蔵助は「せめて弟の長広様に跡を継がせていただけませんか」と幕府と交渉しましたが、ブチキレた綱吉は聞き入れません。というのも……。

綱吉というとどうしても生類憐れみの令などで「横暴な将軍」というイメージがついていますが、儒教や礼儀を重んじる幕府の主らしい面もありました。
そもそも生類憐れみの令も、それまで戦国の気風が残っていた乱暴な社会に、命を重んじる秩序をもたらしたとして、今では再評価されているぐらいです。

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そんなところで、綱吉がうかつに「弟ならいいよ」なんて言ってしまうと、今度は朝廷から「もうちょっとで勅使の身が危なかったんですけど? 武士統率できないんなら、アンタさん将軍にふさわしくないんと違いますか?」とお咎めを受ける可能性だってあります。

この二つの理由で、浅野家そのものを許すわけにはいかなかったのです。

しかし、こうした幕府の事情は浪士たちには通用せず、討ち入りが決行されたのでした。

吉良邸討ち入り/Wikipediaより引用

 

特定秘密情報だったからこそ盛り上がる想像力

この事件、年明けには『忠臣蔵』として歌舞伎の舞台にされました。f

しかし、脚本家や役者、観衆のほとんどが詳しい経緯を知らなかったでしょう。
「お侍は偉い人」という概念しかないような時代ですし、幕府の内情がまるっと外部に伝わることなんてないでしょうから。

そして次々に創作エピソードが盛られていきながら、寛延元年(1748年)8月14日になると、代表的な人形浄瑠璃作品『仮名手本忠臣蔵』が初上演されます。

数ある赤穂義士事件系の中でも集大成といえるのが、この『仮名手本忠臣蔵』でしょう。

というか、いまや赤穂義士事件そのものよりも「忠臣蔵」ほうが有名ですよね。フィクションと史実がこんがらがっちゃってる方もおられるかもしれません。

忠臣蔵(1958年)/wikipediaより引用

江戸時代では、体制批判(幕府批判)につながるノンフィクションベースの作品は御法度でしたので、実際に上演されるときは【実名虚名いりまぜ】になっています。

代表的なところを挙げておきますと……。

吉良上野介きらこうずけのすけ高師直こうのもろなお(室町幕府創設の立役者で足利尊氏の側近・吉良が高家筆頭だから)

浅野内匠頭あさのたくみのかみ→塩谷判官(赤穂の塩から)

大石内蔵助おおいしくらのすけ→大星由良之助(音の響きから)

さらに、吉良(高)が浅野(塩谷)の妻に横恋慕したりと、ドロドロのサイドストーリーを織り交ぜたことが、ウケにウケたのです。しかし……。

 

「ただのテロじゃね?」

現代の世相を反映してなのか。
今や忠臣蔵をご覧になられる方は激減しておりますよね。

最近では、
・刃傷沙汰を起こした原因の不明確さ
・公の判決に対して逆らったこと
・武家屋敷とはいえ無防備に近かった吉良邸を大勢で夜中に襲ったこと
などが注目され、敵討ちの感動ストーリーではなく、物騒な話だと思われることもあります。

「ただのテロじゃね?」
「老人一人相手に、何十人もよってたかって寝込み襲ったのかよ」
という受け取り方になるんですね。

昔に比べてテレビなどで取り上げる頻度が少なくなっているのは、こうした世論の流れも多少影響しているのでしょう。

もうちょっと詳しく知りたい方には、書籍『殿様の通信簿 (新潮文庫)』(→amazon)をオススメします。

『武士の家計簿』でお馴染みの磯田道史先生が書かれたもので、非常に読みやすい文章は、歴史に苦手な方でも入りやすく、とても楽しめますよ。

もちろん「既に知ってる」という詳しい方でも、意外な発見があるかもしれません。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
赤穂事件/Wikipedia

 



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