安政二年(1855年)8月30日は、江戸幕府が蕃書調所(ばんしょしらべしょ)を設立したといわれている日です。
字面からすると何かの調査機関のようにも思えますよね。
実はここ、東京大学の元となった学術機関のひとつでした。
幕末も迫るこの時期、何を学んでいたのかというと、もちろん洋楽(西洋の学問)です。
それはいったいどんな機関だったのか。見て参りましょう。
「洋学」と「蘭学」の違いってご存知?
「洋学」と「蘭学」――。
実は、その違いはほとんどありません。
開国までは西洋の学問や技術がオランダ経由で入ってきていたので、オランダの日本語表記に大体ついている「蘭」をつけたものと思われます。
開国後は、当然ながらオランダ以外からも知識が入るようになったため、「西”洋”の”学”問でいいんじゃね?」ということで「洋学」と呼ばれるようになったのでした。
また、これ以前にも西洋の学問に触れている機関はありました。
幕府で暦を作っていた「天文方」です。
天文を学ぶためには西洋の学問が必要になったため、天文方は少しずつ翻訳もするようになりました。
そして天文方の中に「蛮書和解御用」という部署ができ、これをさらに拡大したのが蕃書調所というわけです。
よくよく考えてみると結構な無茶振りですが、これは日本のお家芸みたいなものですね。
なんせ同時期には提灯職人に蒸気船を作らせたお殿様もいますし、近年では「オルガンやピアノの修理・製造をやってたら、いつの間にかプロペラ・エンジン・バイクも作れるようになってたでござる」(超略)なんて会社もありますから……。
まぁ、それはともかく蕃書調所では多くの学問が行われていました。
和算の下地があったから数学が馴染みやすかった
まずはオランダ語教育が始まり、数年のうちに機械学や他のヨーロッパ系言語、精錬学、画学(美術)など、驚異的なスピードでさまざまな分野を取り扱うようになります。
一番人気は、意外なことに数学だったようです。
慶応年間=開所からだいたい10年後には150人もの生徒がいたといいますから、全体の規模からすると相当の割合だったでしょう。
これは、当時の日本人がガリ勉だったとか数学が得意だったというよりも、【和算】という下敷きがあったからだと思われます。
関孝和をはじめとした和算学者はたびたび世に出てきていましたし、庶民も日常的に算数に親しんでいました。
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というのも、江戸時代は量り売りのお店が今よりずっと多かったからです。
油や反物やお米などの生活必需品を買うときに、自分で計算する必要がありました。
日常的に使っているものなら、親しみもわきますし、「もっと早くできるようになりたい! そうだ算術を学ぼう!」という意欲も出ますよね。
中国語はそのまま読むことが重要だ
その中でも特に計算が好きな人々は、自ら問題を作って神社に奉納したり、皆で話し合って解いたりしていました。
「楽しいから」「おもしろいから」というだけで自ら勉強をしていた江戸時代の庶民、おそるべし。
寺子屋という基盤があったからかもしれませんね。
ちなみに、東洋の学問はまた別の扱いになっていました。といっても、この時代に学問として伝わってきていたのは中国のものくらいですが。
中国語については、江戸時代半ばあたりに
「日本語読みではなく、中国の読み方そのままで読むことが重要だ」
と考えられるようになっていたようです。
洋学ほど幕府が力を入れていたわけではないのですが、細々と続けられていて、「古代の書はできるだけ原文・原語で読まなければならない。そうしないと後世の人の余計な解釈で誤解を招く」(意訳)といった考え方もありました。
とはいえ儒学者たちからはpgrされていたらしく、あまりはっきりした事跡が残っていないので、詳しいことはわかっていません。
さらにそこにきて、アヘン戦争で清(当時の中国)がイギリスにフルボッコされてしまったものですから、中国語教育はあまり進まなかったのでしょう。
現代でも勉強が得意な人は楽しんでやっていることが多いですよね。
全ての教科がデキるようにと意気込むよりも、まずは得意な教科をとことんやるほうがいいのかもしれません。学問はどこかしらで繋がることも多いですし。
歴史と政治なんてそのまんまでしょう。
日本語ができなければ英語をわかりやすく訳すことなんてできませんから、得意なところで取っ掛かりをつかむといいのではないでしょうか。
というわけで、宿題がまだ残っている学生の皆さん頑張ってくださいね。
当コーナーは勉強が嫌いな人を応援しております。
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長月 七紀・記
【TOP画像】photo by Lover of Romance
【参考】
国史大辞典
江戸時代の中国語研究(著・西原大輔)
蕃書調所/Wikipedia
杉田成卿/Wikipedia