糸割賦制度

絵・富永商太

江戸時代

家康「ポルトガルのボッタクリは許さん!」糸割賦制度でシルクを輸入せよ

日本語はオノマトペ(擬態語・擬音語)が豊富な言語だといわれます。

特にグルメ番組などだと「ふわふわ」「もちもち」といった表現が出てこない回はないんじゃないかというくらい、よく出てきますよね。

食べ物の他にも、手触りや光などを表すときにはよくオノマトペが使われます。

本日は「つやつや」「すべすべ」などの表現が似合うお話。

慶長九年(1604年)5月3日は、江戸幕府が糸割符制度(いとわっぷせいど)を導入した日です。

何やら不思議な響きの単語ですが、文字通り「糸」、それも絹の糸である「生糸」に関するものでした。

 

生糸の価格調整のため 家康が組合を設置させた

着物といえば正絹(しょうけん)。

100%絹の糸や布のことですが、日本ではかなり長い間、中国から糸を輸入していました。

養蚕自体は弥生時代に伝わりながら、量と質が中国産に追いついていなかったからです。

江戸時代初頭には、ポルトガル商人経由で中国産の生糸を購入しております。マカオがポルトガルの植民地だったので、双方にとって利便性が高かったのです。

しかし、ここでポルトガル商人が日本にとって良からぬことを思いつきます。

「日本人は俺たちからしか生糸を買えないんだから、値段上げてもバレなくね? もっと儲けられるんじゃね?」

つまり、こっそり価格をつり上げて大儲けしようとしたのです。

が、当時はまだ徳川家康の存命中。そう簡単にはいかせません。

幕府は生糸の価格を調整するため、糸割符という組合を作ります。組合が国内で必要な生糸を一定の価格でまとめて購入して分配、国内販路に乗せるようにしたのです。

また、糸割符に入っていない商人はポルトガル商人から直接生糸を買えないようにしました。でないと、きちんと価格の統制ができませんからね。

こうすることでポルトガル商人のボロ儲けを防いだのです。

これには日本の銀が大量に輸出されるのを防ぐという狙いがありました。

それでも、江戸時代の間に日本の金銀はかなり外国へ行ってしまったのですが……まあそのへんの話はまた別の機会に。

 

ポルトガルだけでなく中国、オランダ商人も対象に

糸割符は当初、京都・堺・長崎の三ヶ所に設置され、後に江戸・大阪、さらに平戸なども加わり、大規模なものとなりました。

対象となる取引相手国も、ポルトガルだけでなく中国やオランダまで拡大。どこの国でも考えることは同じですね。

明暦元年(1655年)に中国商人の抵抗により糸割符は一度解散しましたが、その後復活しているので、あまり意味はなかったようです。

しかし、糸割符が復活して以降の時期には国内での生糸生産が増えていたため、輸入する必要が薄れて実質的にも無意味になってしまいました。

いや、日本にとっては国産で賄えればそれに越したことはないんですね。

幕府や各藩が、蚕の品種改良や生糸の生産に力を入れたおかげでした。幕末の開港後には一転して、日本が生糸の輸出国となったほどです。

岩倉使節団もヨーロッパに行った際、より生糸の生産性や質を上げるため、イタリアで養蚕や生糸工場を視察していました。

これが富岡製糸場などに活かされていくわけですね。

糸繰り機(市立岡谷蚕糸博物館所蔵)/wikipediaより引用

そして、日本の生糸生産が活発化した時期に、ヨーロッパでは伝染病によって養蚕業が壊滅してしまったという理由もあり、日本は20世紀初頭は生糸の生産・輸出国になりました。

余談ですが、だいたい同じくらいの時期にヨーロッパではワイン用のぶどうも寄生虫で壊滅しています。

当時どれだけ菌や虫がはびこっていたのでしょうか……。

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