享和元年(1801年)9月29日は、国学者・本居宣長が亡くなった日です。
日本史の授業ではお馴染みの存在。
著作の『古事記伝』と共に太字になっていたり、先生に赤ペンで線を引かされたりした方も多いのではないでしょうか。
実はこの本居宣長、国学者として知られるだけでなく、医学・儒学・漢学に通じるマルチな才能に恵まれた御方だったと言える。
その生涯を振り返ってみましょう。
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父親は「水分神の申し子」と信じていた
本居宣長は、伊勢国松坂(現・三重県松阪市)の木綿仲買商の家に生まれました。
彼が生まれる前、父親は男子の誕生を願って、大和国吉野の水分神(みくまりのかみ)に祈願したのだそうです。
水分神は書いて字のごとく、雨や田んぼと結び付けられる神様。
それがいつからか「みくまり」が「みこもり」となまり、さらに「御子守」と漢字があてられ、子供の守護神・安産・子宝の神ともみなされるようになったのだとか。
全く違う仕事をさせられる神様も大変ですね。まぁ、日本人も日本の神様もアバウトな鷹揚さがありますが。
そのうち宣長が生まれたので、父親は大喜び。息子のことを「水分神の申し子」と信じていたそうです。
本居宣長は8歳で寺子屋に通い始め、11歳のときに父親を亡くしています。
16歳のときには江戸の叔父の店に行っているので、生活に困ることはなかったのでしょう。
1年ほどで帰郷すると、19歳のときには別の店の養子に入ります。しかし、三年で離縁して実家に戻ってきてしまいました。
一方で、この頃から積極的に和歌を詠み始めました。
実は、宣長の歌は、生涯で1万首にも及びます。
「技巧的ではない」という理由で、文壇からの評価はさほど高くありませんが、本居宣長は「自分の気持ちを素直に詠む」ことを重視していたので、おそらく気にしないでしょう。
『日本人の心とはどのようなもの?』
最も有名なのは、やはりこの歌でしょうか。
敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂う 山桜花(やまさくらばな)
【意訳】もしも人に『日本人の心とはどのようなものでしょう?』と尋ねられたら、私は『朝日に照らされてより一層美しく映る、山桜の花』と答えよう
敷島とは日本の美称のひとつでもあり、「大和」にかかる枕詞でもあります。
また、山桜は宣長が最も愛した花でした。
現代では友好の証などで外国に桜の木が送られることもありますが、それでも「桜=日本」というイメージが強いのは、この歌の影響も大きいと思われます。
おそらく、本居宣長は当初から「商売よりも学問をやっていたいなぁ」と思っていたのでしょう。兄が亡くなって家督を継がなければならなくなったとき、店を畳んでしまっています。
その後、母親と相談した上で、京都へ遊学しました。
この時代にいきなり家業を放り投げることを許してくれたカーチャンもすごい心の広さですが、トーチャンが生きてたら「神の申し子と思って期待してた子供が家業を継いでくれなかったでござる」と悲しんだでしょうね。
ちなみに、カーチャンが遊学を許してくれたのは、「医学を学んで、医師として食べていく」という約束をしていたからだと思われます。
医学・儒学・関学・国学などなど
こうして京都に出た本居宣長は、医学・儒学・関学・国学などをいろいろな先生から学びました。
その中で一番興味を持ったのが、日本の古典文学です。
特に源氏物語が気に入り、後に注釈書である「源氏物語玉の小櫛」や「源氏物語年紀考」を著しています。京都の雰囲気や生活風景も、古典の世界への憧れを強めることになったのかもしれません。
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一通り学を修めた宣長は、28歳のとき地元・松坂に帰り、診療所を開いて生計を立てることにします。
昼間は医師として人々を診察し、夜は源氏物語の講義をしたり、日本書紀を研究したり……。
そんな生活を続け、60代に入ってからは腕を買われて紀州藩に仕えたこともあったのですが、本居宣長自身は「医師は男子本懐の仕事ではない」と考えていたそうです。
あくまで食い扶持を稼ぐためにやっていたということなのでしょう。
ただ、その割には診療記録もシッカリつけています。
小児科も得意としており、「乳児の病気の原因は母親ではないか」と考え、母親の診察もしていたとか。
現代医学でも、母親の栄養状態やメンタルは子供の成長に影響するといわれているから、あながち間違いでもないですよね。
そういった優れた観察眼を持ち、真面目に仕事をしていた割に、医師としての仕事を重く考えていないというのは実に不思議ですが……。
「文学の研究>>>(越えられない壁)>>>医学>>>商売」みたいな価値観だったんですかね。
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