後桜町天皇

後桜町天皇と父の桜町天皇/wikipediaより引用

江戸時代

最後の女帝・後桜町天皇が国母と称される理由~現代皇室にも影響有り

元文五年(1740年)8月4日は、後桜町天皇が誕生した日です。

可憐な諡号しごう(亡くなった後に贈られる呼び名)ではありますが、”後”桜町天皇は女性で、お父上の桜町天皇は男性という、なかなかややこしい事情があったりします。

後桜町天皇の前後は桃園天皇・後桃園天皇なので、やたらとピンク色をイメージする諡号が多い時代でもあります。

この辺の天皇はテストなどには出ないですが、ちょっと面白いですよね。

他に色を連想させる諡号の天皇というのもあまりいないですし、後桜町天皇は、2022年現在で最後の女帝でもあります。

一体どのような経緯で位に就き、どんなことをされた方なのでしょうか。

 


複雑な事情を経て後桜町天皇

女性の天皇というのは、基本的に「中継ぎ」で立つものです。

つまり「天皇が薨去した際、すぐに跡を継ぐべき人がまだ幼いので、その間しばらくお仕事をしてください」という立場になり、血筋で言えば男系が途絶えたことはありません。

後桜町天皇のときは、さらにややこしい理由がありました。

彼女の直前に位に就いていたのが桃園天皇です。

後桜町天皇の異母弟でして、桃園天皇の側近は、いわゆる摂関家が固めるのではなく、別の公家たちでした。

当時の摂関家ではほぼ同時期に世代交代が起きたこともあり、「摂関家の威厳を取り戻したいが、ノウハウを知っている人がいない」という、もどかしい状況。

そんな経緯でひと悶着があったので、摂関家では「もう幼い方が天皇になるのは勘弁して下さい」という気持ちが強かったのです。

そこで、まだ5歳だった桃園天皇の皇子・英仁親王(ひでひとしんのう)がすぐに即位するよりも、22歳の後桜町天皇が一度位に就いたほうが良い、ということになりました。

 


後桃園天皇は22歳の若さで崩御

後桜町天皇は8年間の中継ぎ期間をそつなくこなし、30歳で上皇となります。

しかし、次の後桃園天皇はまだ13歳。

一応、元服する年齢になったとはいえ、生来病弱であり、心配は絶えなかったことでしょう。

そしてその嫌な予感通り、後桃園天皇は22歳の若さで崩御してしまいました。

後桃園天皇の子供は、生まれたばかりの欣子内親王(よしこないしんのう)のみ。

「まだお若いのだから、これから皇子にも恵まれるだろう」

そう思っていたであろう公家も皇族も、絵に描いたような皇室存続の危機を迎えて大騒ぎでした。

後桜町天皇は、新旧の関白らと相談し、「欣子内親王と他の宮家の男子を結婚させて、皇統を保つ」ことに決めます。

この男子が閑院宮家(かんいんのみやけ)の六男、のちの光格天皇でした。

光格天皇については、既に以下の記事で取り上げていますので、詳細は割愛しますね。

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尊号一件で光格天皇を優しく諭し、事態は収拾

光格天皇は、まだ9歳。

図らずも、後桜町天皇は再び幼い新帝を導くことになりました。

このとき後桜町天皇は40歳ですから、まさに親子のような雰囲気だったことでしょう。

位から退いた後、後桜町天皇は仙洞御所(現在の京都御所西)に移っていたのですが、光格天皇への教育を直接行うべく、内裏へもたびたび行幸(お出かけ)していたといいます。

後桜町天皇は和漢さまざまな書籍や歌に造詣が深く、書も得意としていました。おそらくは天皇としての心構えの他に、そういった指導も含まれていた気がします。

この方の影響が最もうかがえるのは、【尊号一件】の時だと思われます。

光格天皇が「私の父が宮家の人間だからといって、摂関家より格下なのはおかしい」として、幕府の松平定信と対立した事件です。

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きなくさい空気の中、後桜町天皇は優しく「称号や身分を高くすることよりも、貴方様の御代が長く続くことが、お父上に対する一番の孝行ですよ」と諭しました。

まだ20歳そこそこの血気盛んな光格天皇も、大先輩かつ母代わり、と二重に頼りにしている後桜町天皇の意見は無視できなかったようで、身を引いたとされています。そして……。

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