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【後桜町天皇】
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幕府も気を遣うほど能力が高かった
幕府のほうでも、後桜町天皇に対しては気を使っていたようです。
天明八年(1788年)京都大火のとき、そんな感じの逸話が残っています。
「大火」とつく通り、この火事はかなりの規模で、京都の町が80%も焼けてしまいました。
内裏や御所も例外ではなく、後桜町天皇は仙洞御所を出て、青蓮院というお寺に仮住まいすることになります。
そして、母である青綺(せいき)門院は隣の知恩院に移っていたのですが、幕府がこの2つの建物の間に廊下を作って、気軽に母子の行き来ができるようにしているのです。
地図を見ると「この距離で廊下作るとか過保護か!」とツッコミたくなりますが、なんせ上皇のお出かけとなると、庶民の散歩とは訳が違います。
自分の母親を見舞うにも、いちいち整えるものがわんさかあるわけです。
この辺のことは、後光明天皇がお父上の後水尾天皇を見舞おうとしたときの話と比べるとわかりやすいですかね。
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「後桜町天皇には気を遣わなければ!(そうしたほうがいろいろうまく行きそう)」と判断したからこそ、こういった“配慮”がされたのでしょう。
知恩院は徳川家とのゆかりがあるお寺なので、いろいろやりやすかったのかもしれません。
また、京都大火は、尊号一件でゴタゴタしている最中の出来事でしたから、その辺も絡んでいると思われます。
あまりにも規模が大きかったため、松平定信が上洛して朝廷と協議し、対応を行ったほど。
もしかしたら、後桜町天皇から定信へ何かしらの連絡があったかもしれませんね。
光格天皇の血筋を通して、現代の皇室へ
後桜町天皇が崩御したのは、文化十年(1813年)のこと。
おそらく尊号一件の後は大きな出来事もなく、穏やかに過ごしていたものと思われます。
この間は、伊能忠敬や間宮林蔵などによる国土の測量等が行われた時期でもありますので、その辺を楽しみにしていたかもしれませんね。
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一方で、ゴローニン事件などにより、異国の脅威が迫りつつあることも感じていたでしょう。
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自らの血を残さないのが女帝のならいです。
しかし後桜町天皇の教えは光格天皇の血筋を通して、現代の皇室に伝わりました。
そのことから、後桜町天皇を「国母」と称することもたびたびあるようです。
日本の場合、正式には天皇の生母を指す呼称ですが、後桜町天皇が現状最後の女帝かつ、現在の皇室の方向性を決めたとみると、最もふさわしい呼び名でしょう。
平成令和になっても「女性は子供を産んで一人前」「帝王切開は甘え。下から産まないと母性は生まれない」なんて話が出ますが、子供を産まずとも、母性にあふれた人はいるものだ……という最たる例が、後桜町天皇ではないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon)
後桜町天皇/wikipedia