宝暦元年(1752年)12月19日は、大岡越前守忠相(ただすけ)の命日です。
時代劇ではお馴染みの存在で、旗本から寺社奉行に任命された方ですね。
「奉行」とつく役職はほかに勘定奉行と町奉行があり、その中でも筆頭格とされていました。
身分の低い武士や旗本が就任する町奉行・勘定奉行と違い、譜代大名(徳川家にずっと仕えてきた大名)から任命されることになっていたのです。
寺社奉行を務めた後は、大坂城代(大坂城の管理人)や京都所司代(京都周辺の仕事をする役)になることもあり、出世コースの入り口ともいえる役職でした。
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紀州藩相手に一歩も引かず吉宗のお眼鏡に
忠相はもともと大名ではなく、旗本の一人に過ぎませんでした。
それが寺社奉行になるなど特例中の特例で、そもそも任命したのも、あの徳川吉宗です。
自分も御三家から将軍になるという異例の歩みで、
「役に立たねえ形式なんぞクソ食らえ!」
というスタンスですから、家柄無視で、適材適所の人材を選んだのでしょう。
※以下は徳川吉宗の生涯まとめ記事となります
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その理由と思われるエピソードもあります。
忠相は吉宗が紀州藩主だったころ、隣の天領(幕府直轄領)伊勢山田で奉行をしていました。
あるときここで、伊勢山田と紀州藩それぞれの農民の間にいさかいが起こります。
紀州藩は御三家の一員。
普通の奉行であれば「エライお家の領地の人に無茶言うんじゃない!こっちが悪いことにしとけ!」とへーこらするところです。
しかし、忠相はそうはしませんでした。
奉行としてきちんと間に入り、双方の言い分や経緯を聞いたうえで、なんと紀州藩の農民を裁いたのです。
職務に忠実だっただけと言えばそれまでですが、これはなかなか度胸がなければできないこと。
それを伝え聞いた吉宗が「今時珍しく、真面目に仕事をやるヤツだ」と気に入り、将軍職に就いた直後に忠相を江戸の町奉行に任じるなど、いろいろな仕事を任せるようになりました。
しかも、抜擢後も、吉宗の意見に反対を貫くこともあり、実際に骨のある方でもあったのです。
町火消し
大岡忠相は吉宗の期待によく応えました。
吉宗と言えば【享保の改革】ですが、その一環である「町火消し」も忠相が作ったそうです。
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当時の(も?)江戸は超人口過密社会。
人は多く、道は狭く、木造家屋がひしめき合っていました。これでは一度火事になったら、あっという間に火の海になってしまいます。
そこで、延焼を防ぐ為に隣の家を壊す、という方法が生み出されました。
この作業に当たったのが町火消しの男たちです。
炎を前にして威勢よく立ち働く彼らは、粋な江戸の名物男として非常に人気がありました。中には特定の殿方をごひいきにしている女性もいたとか。
幕末の新門辰五郎親分なんかも有名な存在ですね。
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