2月20日は歌舞伎の日です。
この数字と何の関係があるんだろ?
と疑問に思う方も多いかもしれませんが、慶長12年(1607年)2月20日に出雲阿国(いずものおくに)が江戸で歌舞伎踊りを上演したことに由来しています。
以来、現代まで、日本の代表的芸能としてスッカリお馴染みの存在。
400年を超える歴史を持つだけあって、各時代を通してなかなか「波乱万丈」な経過を経ています。
では一体どんな経緯を辿ってきたのか?
歌舞伎の歴史を振り返ってみましょう。
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歌舞伎の歴史は出雲阿国から始まった
前述の通り、歌舞伎は戦国時代に「出雲阿国」という女性が始めたものだとされています。
当時は「かぶき踊り」と呼ばれていて、露出度が高い服装だったり、R18的なものを含んでいたり、現在イメージされる歌舞伎とは全く違うものでした。
彼女が本当に出雲出身だったのか。
いつ頃から活動していたのか。
その辺の詳細はハッキリしませんが、少なくとも慶長八年(1603年)にはかなりの人気を誇っていたと思われます。
記録に出てくるのがこの年だからです。
しかしその後、踊り手の露出度が上がったり、観客とのオトナな関係(オブラートに包んだ表現)などが頻発したりして、「社会的によろしくない」と認識。
そのため女性の役者による歌舞伎が禁止され、男性の役者だけになった……といわれています。
男社会の江戸では客と演者が男色関係を持つように
しかし問題は、平行して行われていた【若衆歌舞伎】でも起きました。
「若衆」とは12~18歳くらいまでの美しい少年役者のことなのですが、彼らが客と男色関係を持つようになってしまったのです。
理由の一つは、「江戸に女性が少なかった」ことが考えられます。
江戸は徳川家が移ってきてから急速に発展させた町ですから、その住民の多くは労働力である男性でした。
武家やその屋敷に仕える下働きの人間も大多数が男性ですから、必然的に男社会になるわけです。
右を見ても左を見ても……という状態で、綺麗かつ女装をすることもある役者とお近づきになりたいと思ったり、実際に親しくなったりするのも、不自然なことではありません。
なんせ三代将軍・徳川家光も若い頃は女性嫌いで、若衆とのお付き合いを好んでいたくらいですから。
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もちろん、そんな調子では人口が増えず、幕府も武家も、その他の職の人々もとても困ります。
そういった理由から若衆歌舞伎も禁止されました。
野郎歌舞伎を機に大きな変貌を遂げる
代わって確立したのが「野郎歌舞伎」と呼ばれる形式です。
前髪を落とした(=成人した)後の男性役者によるもので、野郎歌舞伎が主流になるまでの流れには諸説ありますが、ここでは省略。
ともかくその時代になってから、大きく変わりました。
役者の外見だけではなく、演技の上手さや演出で客を惹きつける傾向になっていったのです。
演技や作風については、江戸と上方で違った傾向がありました。
江戸は「荒事(あらごと)」と呼ばれる荒っぽいシーンや、それを得意とする役者が人気を集めていました。
『御攝勧進帳(ごひいきかんじんちょう)』の弁慶などが当てはまりますね。
よく似た名前ですが、著名な『勧進帳』より古い台本のものです。
一方、上方では「和事(わごと)」と呼ばれる艶っぽいシーンや優美な振る舞いの役者が人気でした。
よしながふみ氏『大奥』で生島新五郎が演じていた、「廓文章」の主役・藤屋伊左衛門などが和事の代表例。
作中の舞台は江戸でしたが、江戸でも和事を取り入れる役者はいたそうで。
幕府公認の江戸四座→後に江戸三座
こうして徐々に盛り上がっていった歌舞伎は、儒教の広まりや天災などによる影響も受けました。
正保元年(1644年)には、「存命中の人名を用いてはならない」という法律ができています。
しかし、元禄十六年(1703年)には赤穂浪士作品(忠臣蔵)がさっそく作られており、作中人物の名前はテキトーにもじった程度でバレバレでした。
だからこそ今日でも赤穂浪士の話が広く知られているわけです。
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ここまでが、江戸時代の前半部分――。
その後、歌舞伎が発展する中で、それを演じる場である芝居小屋は、切磋琢磨を繰り返しながら整理されます。
最終的に、幕府に公認されたのは中村座・市村座・森田座・山村座の四座(江戸四座)だけ。
このうち山村座は、お抱え役者・生島新五郎が江戸城大奥御年寄・江島と関係を持ったとする「絵島生島事件」により、永久お取り潰しになってしまいました。
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結果、江戸三座になっています。
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