徳川重好

江戸城清水門

江戸時代

徳川重好~将軍を一人も輩出できなかった御三卿・清水徳川家の初代

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田沼意次に賄賂を送り将軍にしてもらう!?

重好に関する目立ったエピソードはありません。

が、おそらくは温厚で権力欲があまりなかったのでしょう。

コケにされたも同然の扱いに対して、不平を鳴らしたとかいう話もないようです。

それだけに、重好に仕えていた家臣たちは歯がゆい思いをしていたと思われます。

実際、天明八年(1788年)に幕府に対して「清水家でアヤシイ動きをしている者がいます」と報告されたことがありました。

首謀者は長尾幸兵衛という人物で、田沼意次に3万両もの賄賂を送り、重好を将軍にしてもらおうとしていたようです。

賄賂や陰謀はよろしくありませんが、逆にいえば、家臣がそうしたくなるほど重好がデキた人だったのでしょう。上が立派だと、下もやる気が出ますからね。

もっともこの頃の意次は既に老中をクビになっていますし、亡くなる直前でしたのでどこまで頼りになったか、あるいはこの話そのものの真偽もなんだか怪しく……。

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重好はそのまま、特にトラブルも功績もなく、50歳で世を去りました。

家治の男子も既に亡くなっていたため、家重の血筋はこれで断絶してしまっています。

最初からそんな感じだったためか、清水徳川家はその後も実子による相続が行われませんでした。

将軍の弟や次男以降の人が一時的に清水家に入り、御三家のどこかに再び養子に行くということが繰り返されたのです。

二昔前の腰掛け就職のようですね。

そのため、清水家から直接将軍に就いた人はいません。

※14代将軍・徳川家茂の父が徳川斉順であり、清水徳川家第3代当主でしたが、後に紀州藩主となったので清水徳川家からは輩出されていないということになります

 

明治維新後は爵位を返上するも昭和になって再び男爵に

江戸時代で最後に清水家当主となったのは、徳川慶喜の弟であり水戸徳川家出身の徳川昭武でした。

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しかし、幕末に慶喜・昭武の長兄で最後の水戸藩主・慶篤が亡くなったため、昭武は水戸家の家督を継ぎます。

代わりに明治初期までは昭武の甥・篤守が清水家を継いでいますが、明治十七年(1884年)の華族令で伯爵を授けられた後、経済的事情により明治三十二年(1899年)に爵位を返上して一般人同然となりました。

江戸時代もそうでしたが、お偉いさんはお偉いさんで面子を保つための費用がかさみ、てんてこ舞いだったのです。

昭武は大河ドラマ『青天を衝け』にも登場。

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その後は清水家自体が歴史の表舞台に立つこともなくなりました。

が、篤守の嫡子・好敏が、陸軍航空兵分野確立などの功績により、昭和三年(1928年)に男爵になっています。

血が繋がっていないにもかかわらず、清水家は何だか重好の性格がよく現れているような気がしますね。不思議なものです。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴史読本2013年1月号「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon
徳川重好/Wikipedia
清水徳川家/Wikipedia

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