後桜町天皇

後桜町天皇/wikipediaより引用

江戸時代

最後の女帝・後桜町天皇が国母と称される理由|尊号一件で見せた存在感

2025/08/03

元文五年(1740年)8月4日は、後桜町天皇が誕生した日です。

可憐な諡号しごう(亡くなった後に贈られる呼び名)ではありますが、”後”桜町天皇は女性で、お父上の桜町天皇は男性という、なかなかややこしい事情があったりします。

後桜町天皇の前後は桃園天皇・後桃園天皇なので、やたらとピンク色をイメージする諡号が多い時代でもあります。

この辺の天皇はテストなどには出ないですが、ちょっと面白いですよね。

他に色を連想させる諡号の天皇というのもあまりいないですし、後桜町天皇は、2024年現在で最後の女帝でもあります。

後桜町天皇/wikipediaより引用

一体どのような経緯で位に就き、どんなことをされた方なのでしょうか。

 


複雑な事情を経て後桜町天皇

女性の天皇というのは、基本的に「中継ぎ」で立つものです。

つまり「天皇が薨去した際、すぐに跡を継ぐべき人がまだ幼いので、その間しばらくお仕事をしてください」という立場になり、血筋で言えば男系が途絶えたことはありません。

後桜町天皇のときは、さらにややこしい理由がありました。

彼女の直前に位に就いていたのが桃園天皇です。

後桜町天皇の異母弟でして、桃園天皇の側近は、いわゆる摂関家が固めるのではなく、別の公家たちでした。

当時の摂関家ではほぼ同時期に世代交代が起きたこともあり、「摂関家の威厳を取り戻したいが、ノウハウを知っている人がいない」という、もどかしい状況。

そんな経緯でひと悶着があったので、摂関家では「もう幼い方が天皇になるのは勘弁して下さい」という気持ちが強かったのです。

そこで、まだ5歳だった桃園天皇の皇子・英仁親王(ひでひとしんのう)がすぐに即位するよりも、22歳の後桜町天皇が一度位に就いたほうが良い、ということになりました。

後桜町天皇の宝冠/wikipediaより引用

 


後桃園天皇は22歳の若さで崩御

後桜町天皇は8年間の中継ぎ期間をそつなくこなし、30歳で上皇となります。

しかし、次の後桃園天皇はまだ13歳。

一応、元服する年齢になったとはいえ、生来病弱であり、心配は絶えなかったことでしょう。

そしてその嫌な予感通り、後桃園天皇は22歳の若さで崩御してしまいました。

後桃園天皇の子供は、生まれたばかりの欣子内親王(よしこないしんのう)のみ。

「まだお若いのだから、これから皇子にも恵まれるだろう」

そう思っていたであろう公家も皇族も、絵に描いたような皇室存続の危機を迎えて大騒ぎでした。

後桜町天皇は、新旧の関白らと相談し、「欣子内親王と他の宮家の男子を結婚させて、皇統を保つ」ことに決めます。

この男子が閑院宮家(かんいんのみやけ)の六男、のちの光格天皇でした。

光格天皇/wikipediaより引用

光格天皇については、既に以下の記事で取り上げていますので、詳細は割愛しますね。

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尊号一件で光格天皇を優しく諭し、事態は収拾

光格天皇は、まだ9歳。

図らずも、後桜町天皇は再び幼い新帝を導くことになりました。

このとき後桜町天皇は40歳ですから、まさに親子のような雰囲気だったことでしょう。

位から退いた後、後桜町天皇は仙洞御所(現在の京都御所西)に移っていたのですが、光格天皇への教育を直接行うべく、内裏へもたびたび行幸(お出かけ)していたといいます。

後桜町天皇は和漢さまざまな書籍や歌に造詣が深く、書も得意としていました。おそらく天皇としての心構えの他に、そういった指導も含まれていた気がします。

この方の影響が最もうかがえるのは、【尊号一件】の時だと思われます。

光格天皇が「私の父が宮家の人間だからといって、摂関家より格下なのはおかしい」として、幕府の松平定信と対立した事件です。

松平定信/wikipediaより引用

きなくさい空気の中、後桜町天皇は優しく「称号や身分を高くすることよりも、貴方様の御代が長く続くことが、お父上に対する一番の孝行ですよ」と諭しました。

まだ20歳そこそこの血気盛んな光格天皇も、大先輩かつ母代わり、と二重に頼りにしている後桜町天皇の意見は無視できなかったようで、身を引いたとされています。

 


幕府も気を遣うほど能力が高かった

幕府のほうでも、後桜町天皇に対しては気を使っていたようです。

天明八年(1788年)京都大火のとき、そんな感じの逸話が残っています。

「大火」とつく通り、この火事はかなりの規模で、京都の町が80%も焼けてしまいました。

内裏や御所も例外ではなく、後桜町天皇は仙洞御所を出て、青蓮院というお寺に仮住まいすることになります。

そして、母である青綺(せいき)門院は隣の知恩院に移っていたのですが、幕府がこの2つの建物の間に廊下を作って、気軽に母子の行き来ができるようにしているのです。

地図を見ると「この距離で廊下作るとか過保護か!」とツッコミたくなりますが、なんせ上皇のお出かけとなると、庶民の散歩とは訳が違います。

自分の母親を見舞うにも、いちいち整えるものがわんさかあるわけです。

この辺のことは、後光明天皇がお父上の後水尾天皇を見舞おうとしたときの話と比べるとわかりやすいですかね。

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「後桜町天皇には気を遣わなければ!(そうしたほうがいろいろうまく行きそう)」と判断したからこそ、こういった“配慮”がされたのでしょう。

知恩院は徳川家とのゆかりがあるお寺なので、いろいろやりやすかったのかもしれません。

また、京都大火は、尊号一件でゴタゴタしている最中の出来事でしたから、その辺も絡んでいると思われます。

あまりにも規模が大きかったため、松平定信が上洛して朝廷と協議し、対応を行ったほど。

もしかしたら、後桜町天皇から定信へ何かしらの連絡があったかもしれませんね。

 

光格天皇の血筋を通して、現代の皇室へ

後桜町天皇が崩御したのは、文化十年(1813年)のこと。

おそらく尊号一件の後は大きな出来事もなく、穏やかに過ごしていたものと思われます。

この間は、伊能忠敬間宮林蔵などによる国土の測量等が行われた時期であり、一方で、ゴローニン事件などにより、異国の脅威が迫りつつあった頃。

実はかなり切迫した事態でしたが、この頃は朝廷に知らされることもないですし、そもそも政治外交的な解決能力もありません。

それでも伝統や歴史だけは日本のどこよりも強い京都――女帝は、自らの血を残さないのがならいです。

しかし後桜町天皇の教えは光格天皇の血筋を通して、現代の皇室に伝わりました。

そのことから、後桜町天皇を「国母」と称することもたびたびあるようです。

日本の場合、正式には天皇の生母を指す呼称ですが、後桜町天皇が現状最後の女帝かつ、現在の皇室の方向性を決めたとみると、最もふさわしい呼び名でしょう。

平成令和になっても「女性は子供を産んで一人前」「帝王切開は甘え。下から産まないと母性は生まれない」なんて話が出ますが、子供を産まずとも、母性にあふれた人はいるものだ……という最たる例が、後桜町天皇ではないでしょうか。


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【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon
後桜町天皇/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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