忠臣蔵

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江戸時代

フィクションの『忠臣蔵』と史実の「赤穂事件」では何がどう違う?

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将軍は文治政治を推し進めた綱吉

そもそもなぜ浅野内匠頭はそんなことをしたのでしょうか?

当時の将軍は徳川綱吉

【生類憐みの令】で悪名高い人ですが、最近は暴力を排除し、文治政治を推し進めた方として再評価されておりますね。

儒学を重んじ、威厳の衰えつつあった朝廷に対してもきちんと礼を尽くし、年明けのお祝いやその返礼の勅使を丁寧にもてなしたりして、慣例を大切にする面もあったのです。

徳川綱吉
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さらに言えば、生類憐れみの令が、生けるものに対する命の尊さを説いた――という見方もあるほどです。

生類憐れみの令
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ともかく綱吉は、武士だからといって無闇矢鱈と刀を振り回すような暴力沙汰には厳しい目を持っておりました。

お膝元で暴力なんてもってのほか。

しかも朝廷からの返礼の使者をもてなす役目ですから、より一層、格式ある振る舞いが求められる。

そんなときに担当になったのが赤穂藩主の浅野内匠頭(3万5,000石・一説に5万石超)と伊予吉田藩主(3万石)の伊達宗春でした。

 

吉良に払う授業料も負担

二人は、指南役の吉良上野介義央の指示に従い、準備をしていきます。

しかしこの接待役、非常にお金がかかる仕事でした。

「朝廷に失礼のないように!」ということで宴会や高価なお土産を用意しなくてはなりません。

わかりやすく言えば、外様大名(関ヶ原後の徳川に従った大名)の力を削ぐ目的もありました。

こっそりお金や武器を蓄えられて、反乱を起こされてはたまりませんからね。

しかも、指南役である吉良上野介にも授業料として高価な贈り物をしなくてはなりません。

この二重の散財で、特に、小さな藩は非常に苦しめられます。

浅野内匠頭は以前にも饗応役を務めたことがあるのですが、

浅野内匠頭(浅野長矩)
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その間に物価が大幅に上がったこともあって、かなりの負担と感じていたようです。

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