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【徳川継友】
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吉宗もケチだが財政状況を回復
継友の正室・安己君(あこぎみ)は近衛家の姫で、天英院にとっては姪っ子でした。
血縁関係を重視して政治をするのが常識な当時、天英院がなぜ姪の嫁ぎ先を推さなかったのか、ちょっと不思議ですよね。
これはおそらく、継友と吉宗の藩政をみて判断したものと思われます。
継友はその立場上、若い頃からお金をケチって溜め込む癖がついていました。
上記の通り、どこかへ養子入りすることもできず、少ない収入でやりくりしなければならなかったのですから、そういった癖がつくのも仕方のないことです。
吉宗も節倹に務めてなんやかんやの末に紀州藩主になっていますけれども、両者の違いは「藩主になってからどうだったか」という点。
継友は領民からも「ケチな殿様」と言われる一方、吉宗はケチはケチでも、きちんと藩の財政状況を回復させたため「素晴らしい藩主様だ!」と高評価を得ていました。
天英院はこの評判を聴き比べ「ただのケチより、実績を挙げている方に将軍職をお任せすべき」と考えたのでしょう。
また、上記の就任パーティーといい、継友には「そのタイミングでそれをやるのはマズイ」ということが度々あり、それもマイナスになったと考えられます。
江戸城では先代までの将軍の命日など、「お慎み」をしなければならない日がたくさんありますので、その辺の事情も懸念となったのでしょう。
朝廷からの使者を迎えることもありますしね。
一応、継友も財政再建のためにいろいろやっていて、成果も挙げているのですが……。いかんせん比較対象が悪すぎました。
宗春に釣られすぎでは……
継友が亡くなって、跡を継いだのは弟の宗春でした。
詳細は以下の記事に譲り、一言で特徴を申し上げますと「将軍様はケチれケチれとおっしゃるが、それでうまくいくなら苦労はせんわい!」とばかりに、吉宗の真逆を行く政治を行った”人です。
徳川宗春のムネノミクスで空前の好景気「名古屋の繁華に京(興)がさめた」
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それが派手好みの尾張の人々にウケたものですから、相対的に継友の評判が下がりっぱなしになりました。
亡くなった後までディスらんでも(´・ω・`)
確かに宗春の政治で名古屋は一時好景気に湧いたんですけどね。
ただし、藩財政は改善しておらず、あまりに幕府に反抗的だったため宗春も引退へと追い込まれています。
継友が亡くなったとき39歳と早めなことも考えると、なんだか可哀相な点のほうが多いような気がしてきます。
豪遊して藩政を台無しにしたとかではないので、もう少し努力が認められてよいのではないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
二木謙一『征夷大将軍になり損ねた男たち トップの座を逃した人物に学ぶ教訓の日本史』(→amazon)
歴史読本編集部『歴史読本2013年1月号電子特別版「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon)
徳川継友/Wikipedia