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【新井白石】
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「木門の五先生」「木門十哲」の一人に
貞享三年(1686年)、新井白石は綱吉の侍講(儒学などの師)でもある木下順庵の門下に入り、初めて学問の師を得ることができました。
実はこのときまで師匠と呼べる人がいなかったのです。
ほぼ完全に独学で30歳になるまで勉強をしていたのですから、これはもう根っからの学者気質といえますね。
白石は数年で、順庵の代表的な弟子たちをまとめた呼び名「木門の五先生」あるいは「木門十哲」の一人とみなされるまでになります。
もちろん、師匠にとっても自慢の弟子の一人。
順庵が以前加賀藩に仕えていたため、その縁で白石を紹介しようとしたこともあったようです。
しかし、兄弟弟子の岡島忠四郎が
「加賀に母がいるので、できれば私が行きたい。先生に私を取り次いでもらえないか」
と相談してきたため、白石は加賀行きを譲ったのだとか。エエ話やな……。
当時の加賀藩主は、80年間も藩主を務めたことで知られる四代・前田綱紀です。
学問や文学を尊ぶ方針を採っており、学者としては得難いタイプの主君でした。
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白石も少なからず加賀に興味があったのではないかと思われますが、もしもここで譲らなければ、彼の名は今ほど有名にはならなかったかもしれません。
というのも、この後にやはり順庵の推挙で、甲府藩主・徳川綱豊の侍講になったからです。
徳川綱豊が甲府藩主から六代将軍へ
徳川綱豊は、後に六代将軍・徳川家宣となる人です。
つまり、加賀藩に行っていたら、新井白石が家宣に仕えることもなく、彼が幕政に関わることもなかった……ということになります。
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「残り物には福がある」とは少々違いますが、まぁ、かなり得をしたのではないでしょうか。
そこから綱吉が亡くなり、家宣が将軍位を継ぐまでには数年のブランクがありました。
同時にそれは、白石が家宣から厚い信任を受けるのに十分な時間となります。
宝永六年(1709年)に家宣が将軍になると、白石は積極的に幕政へ意見を出し、その才能と学識を活かそうとしました。
働きも認められ、従五位下・筑後守という官位と、1,000石の領地も貰い、領主の仲間入りもしています。
しかし、正徳二年(1712年)に家宣が死去。
白石の前途に影がさし始めました。
家宣の遺児である七代将軍・徳川家継は幼い上に病弱で、側用人・間部詮房と白石だけではいかんともし難かいものがありました。
他の幕閣からは
「先代将軍の威光を笠に着る下賤の者ども」
という目で見られていたため、政治的にも孤立してしまいます。
白石に対する嫉妬からなんでしょうけど、どうしようもないですね。
そして家継もまた、将軍就任から数年で亡くなり、将軍の座は紀州藩からやってきた吉宗のものに……。
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