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【大塩平八郎の乱】
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「地元が困ってるやろ」「決まりなんでぇ」「プチッ!」
彼は現役時代からクソ真面目な役人として知られておりました。
引退後は自力で陽明学を学び、私塾を開くなど、徹頭徹尾お堅い人物であります。
さすがにいきなり突撃するワケではなく、平八郎は現役時代のツテを辿り
「地元が困ってんのに江戸を優先すんのはおかしな話とちゃうか」
と意見を申し述べました。
それに対して返ってきたのは「江戸に送ることになってるんで」というテンプレ通りの返答。
ついに彼とその門下の人々はブチキレます。
平八郎は、まず自らの蔵書を売り払って資金を作り、貧しい人々の救済を始めました。
しかし、とても追いつかず、やむなく武装蜂起も辞さぬ――という方針に変えていきます。
決起の前には家族が罪をかぶることのないよう離縁、家財を売却することによって武器防具の類を調えたそうです。
まさに決死の覚悟ですね。
しかし……。
大砲をぶっ放し天満一帯を火の海に
こうした緊迫した状況に耐えられなかったのか。それとも最初からスパイが入り込んでいたのか。
この決起は実行直前に当局へバレてしまいます。
決起の前日、メンバーの平山助次郎・吉見九郎右衛門が奉行所に密告したのです。
大塩平八郎たちは当初の計画を変更せざるを得なくなり、早速、行動にでました。それが天保8年(1837年)2月19日のことです。
平八郎たちはなかなか過激な行動に出ます。
まず自宅に火をつけると、蜂起を知った近隣の農民たちが集い100名ほどのメンバーに。
彼らは「救民」の旗を掲げ、大砲をぶっ放し、焙烙玉を投げたり、天満一帯を火の海にしました。
朝の8時ころに始まったこの乱は、騒ぎを知ったところに野次馬も加わり、300人ほどの集団に膨れ上がります。
彼らは鴻池屋を始めとした豪商にも襲いかかり、金品や米などを路上にばら撒きながら暴れ続けるのでした。しかし……。
所詮は町人や農民の烏合の衆です。
奉行所から幕府の鎮圧軍が出てくると、あっという間に壊滅。
半日程度で鎮圧され、平八郎も40日ほど逃げ回ったあとの3月27日、自決に至りました。
養子と共に火薬を使っての爆死を選んだ平八郎は、死後、顔の判別もつかないほどだったそうです。
爆死というと戦国時代の松永久秀が有名ですが(実際はやってない)、大塩平八郎親子も同じ死に方をしていたとは意外ですね。経緯は全然違いますが。
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生真面目を通り越して厳格過ぎたのかも
乱の影響は決して小さくありませんでした。
3,389軒もの家屋が焼失。
実に市街地の1/5が焼けており、世帯数で言うと12,578もの家族が影響を受けています。
幕末期の争乱期が始まるまでには、まだ若干の時間がありますが、大塩平八郎の影響を受けたモノたちが「大塩門弟」や「大塩残党」といった旗を掲げ、各地で複数の騒動を起こすのです。
もう米を基本とした社会システム(幕藩体制)に限界が来ていたのかもしれませんね。
事実、この一件が幕府の権威を大きく失墜させたとも見られています。
哀しいのは、生真面目を通り越え、厳格過ぎだとされる平八郎の性格でしょう。
等々、良く言えばマジメ、悪く言えば非常に融通のきかない特徴を兼ね備えていたのです。
大坂町奉行がもう少し柔軟に対応していてくれてたら、こんなことにならなかったのでは?と、無念な思いが湧いてきてしまいます。
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【参考】
国史大辞典
大塩平八郎/wikipedia