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【歌舞伎の歴史】
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幕府公認の江戸四座→後に江戸三座
こうして徐々に盛り上がっていった歌舞伎は、儒教の広まりや天災などによる影響も受けました。
正保元年(1644年)には、「存命中の人名を用いてはならない」という法律ができています。
しかし、元禄十六年(1703年)には赤穂浪士作品(忠臣蔵)がさっそく作られており、作中人物の名前はテキトーにもじった程度でバレバレでした。
だからこそ今日でも赤穂浪士の話が広く知られているわけです。
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ここまでが、江戸時代の前半部分――。
その後、歌舞伎が発展する中で、それを演じる場である芝居小屋は、切磋琢磨を繰り返しながら整理されます。
最終的に、幕府に公認されたのは中村座・市村座・森田座・山村座の四座(江戸四座)だけ。
このうち山村座は、お抱え役者・生島新五郎が江戸城大奥御年寄・江島と関係を持ったとする「絵島生島事件」により、永久お取り潰しになってしまいました。
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結果、江戸三座になっています。
吉宗の時代は良かった 問題は水野の改革
続く享保年間(八代将軍・徳川吉宗の時代)には、歌舞伎の劇場も大きく変変化します。
このころ屋根付きの芝居小屋になり、現代でも見せ場の「宙乗り」や、夜と闇の演出がしやすくなって、ストーリーにも幅が生まれました。
また、歌舞伎の舞台独特の花道やせり上げ(舞台の全体や一部を持ち上げる仕掛け)なども、この時代から登場したのです。
吉宗=質素倹約のイメージが強いため、どちらかというと贅沢に近いエンターテイメントである歌舞伎が発展したのは意外な感じもしますね。
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実は吉宗は、歌舞伎に限らず「芸術の類は人間に良い影響がある」と考えていたフシがあります。
白河藩主・松平明矩(あきのり)の病中に「音楽で気晴らしをするといい」とアドバイスしたこともあるそうですし、自身もストレス解消のためにいくつかの芸術的な趣味を持っていました。
となると、歌舞伎についても「役者あさりや連日連夜行くのはいただけないが、憂さ晴らしでたまに行く分には結構」くらいに思っていたのかもしれませんね。
ただし、次の時代【天保の改革】ではそうはいきませんでした。
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質素倹約よりも奢侈(しゃし・ぜいたくのこと)禁止に固執したため、歌舞伎は格好のターゲットにされてしまいました。
役者のプライベートまで大幅に制限したり、芝居小屋の場所を指定したり。
中村座が火事で焼けてしまったのを口実に、中村座だけでなく市村座・森田座もまとめて江戸の中心街から締め出してしまったりしたのです。
忠邦は歌舞伎そのものを廃止に追い込みたかったようですが、遠山の金さんこと遠山景元の反対で取りやめたといいます。
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