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【歌舞伎の歴史】
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逆境を逆手に取って生き抜いた
しかし、江戸っ子らしく歌舞伎の関係者たちもタダでは引っ込みません。
締め出しによって全ての役者が一ヶ所に集まることになったため、かえって役者の融通がききやすくなったり、市中の火事の被害をまぬがれたりと、メリットもありました。
上から締め付けられると、下が団結するもんですよね。
実は、武家でもこっそり歌舞伎を見に行っていた者は多かったので、客が激減することもありませんでした。むしろお忍びしやすくなってたかもしれません。
刀を差したまま、顔だけ隠して屋台に行ったりする武士も少なくなかったそうですから。
こうして受難もありつつ、歌舞伎は幕末をひっそり生き抜いて、明治時代に再び復権しようとします。
ですが、今度は明治政府が歌舞伎に対して干渉しはじめました。
「高い身分の方や外国人が見るにふさわしい内容」を求めたり、作り話を廃止するよう命じたり……。
これは、江戸時代に「事実をそのまま演目にしてはならない」といわれていたのと真逆のことだったため、関係者は戸惑ったとか。
明治時代になると政府が地位向上を図り
一方で、明治政府は歌舞伎の地位向上も図りました。
江戸時代のうちは、歌舞伎役者は表向き蔑まれていたのですが、明治天皇の天覧歌舞伎が行われたり、諸外国に「日本は文明国である」とアピールするため、学者などによる演劇改良会が結成されたりしたのです。
アメとムチというか、なんというか……。
そして明治二十二年(1889年)に演劇改良会の会員と金融業者の共同で銀座・歌舞伎座が設立されます。
これまでの江戸三座も一時対抗したものの、火事などで廃れ、消えていきました。
世代交代といえるでしょうか。
また、この頃に「新歌舞伎」という新しいジャンルが生まれています。
新たな観客層を獲得するため、それまで使われていなかった外部の作家の台本や外国の翻訳、舞台照明などを用いたものです。
現代でもワンピース歌舞伎などが演じられているように、そのときどきの文化を取り入れていく柔軟な姿勢は昔からあったのですね。
当初はGHQに禁止され 昭和22年に「仮名手本忠臣蔵」
戦時中はやはり、劇場閉鎖や演目制限なども行われていました。
一般人と同じように、人や物の被害も受けています。
戦後はGHQによって、しばらくの間は仇討ちや身分社会などが含まれた演目は禁じられました。
日本人の復讐心や、戦中までの価値観の肯定をさせないように……との狙いだったようです。
しかし、そのうちGHQの内部から「歌舞伎については制限を緩和してもいいんじゃないか」という話が出始め、昭和二十二年(1947年)には「仮名手本忠臣蔵」の興行が開催。
日本の独立回復後は、レジャーやエンターテイメントの幅が広がったため、歌舞伎は従来ほどの人気を保つことが難しくなっていきました。
しかし1960年代以降、古くからの演目や様式が復興されたことや、大阪松竹座・博多座が開場したこと、そして「スーパー歌舞伎」という大胆な演出を用いた新しい形式を生み出したことにより、再び世間の注目を集めるようになりました。
歌舞伎役者が映画やドラマなどに出演するようになったのも、より多くの人にとって歌舞伎が身近に感じられるように……という狙いがあったからなのでしょう。
と、そんなこんなで歌舞伎は今も続いているというわけです。
最近では、公式サイトに初めて歌舞伎を見る人向けのマナーページを設けたり、一部の日時に託児サービスを設けたりして、ハードルを下げる方向性のようですね。
人気少年マンガやインドの叙事詩を演目にするなど、新しい試みも続けていますし、古くから親しまれている「仮名手本忠臣蔵」や「義経千本桜」などももちろん上演されています。
「堅苦しそう」と尻込みせずに、気軽に行ってみるといいかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
藤田洋『歌舞伎ハンドブック―歌舞伎の全てがわかる小事典』(→amazon)
国史大辞典
歌舞伎/wikipedia