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【鳥文斎栄之】
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肉筆画に専念した、悠々たる晩年
庶民派路線で、何かと挑発的だった歌麿と蔦屋のコンビ。
【寛政の改革】以降は厳しくなった禁令をすり抜ける工夫が必要とされました。
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鳥文斎栄之にも、そんな事情があったのか。寛政10年(1798年)頃には画業から遠ざかったとされます。
それでも享和(1801年 - 1804年)・文化(1804年 - 1818年)年間には画壇に復帰。
浮世絵ではなく、あくまで肉筆による美人風俗画に乗り出しました。
庶民の友である浮世絵に対し、肉筆画は格上とされました。
旗本であり、狩野派で学び、将軍の側にいた栄之ですから、こちらが本来の姿といえるのかもしれません。
浮世絵師を出したため、狩野派から破門されたともされる栄之。
そんな彼に最高の栄誉が訪れます。
寛政12年(1800年)、11代将軍・徳川家斉が、栄之に隅田川の図を描かせたのです。
風景画も得意とする栄之の絵は、江戸に下向していた妙法院宮真仁法親王により京都に持ち帰られ、後桜町院をことのほか喜ばせました。
これを名誉とした栄之は「天覧」を刻んだ印章を作らせるほど。
栄之が栄光の日々を送る一方、ライバルであった歌麿は苦しんでいました。
幕府の禁令と奮闘を続け、江戸っ子を驚かせるような斬新な作品ができず、鬱々としていたのです。
しかも文化元年(1804年)には幕府により【手鎖】50日の刑を受け、大打撃を受けました。
二年後の1806年(文化3年)、享年54で没しています。
歌麿や栄之のライバルといえる鳥居清長は、売上において歌麿に負けた寛政年間頃からは【美人画】以外を手がけ、流派のために尽くす堅実な絵師となりました。
歌麿よりほぼ十年後の文化12年(1815年)、享年64で没しています。
その後も栄之は、絵筆を執り続けました。
売上にこだわらず、革新的な画風も模索しなかったためか。
大勢の弟子に囲まれる充実した晩年を過ごし、弟子たちは師匠の清楚な【美人画】を受け継いでゆきます。
文政12年(1829年)、74歳で亡くなるまで、栄之は大勢の弟子とともに肉筆画を残し続けました。
足掛け45年にも及ぶ絵師として過ごした期間――ライバルたちと比較すると、悠々たる晩年といえます。
版元の販売戦略が、知名度を分けた
明治時代になると、来日した外国人は【美人画】に魅了されました。
知名度が抜群の歌麿は、すぐに彼らの記憶に残ります。
「歌麿がよろしい! 歌麿ばかり、売ってください!」
そう指名されて集中的に買われ、もともと流通数が多いこともあってか、ウィリアムとジョンのスポルディング兄弟による「スポルディングコレクション」など、まとまった蒐集が保管されました。
ライバルである鳥文斎栄之も人気がありました。
「これもよろしい!」として売れてゆきますが、そもそもが高級路線であるため、流通数が少ない。
肉筆画となるとそれこそ極めて稀です。その稀な作品が海外に流出した結果、日本では忘れられてしまったのです。
ともかく数を売り捌く蔦屋と歌麿。
高級路線で流通を制限した西村屋と栄之。
販売戦略が後世の知名度にまで影響を及ぼしてしまう。
そんな両者ですが、力量としての差があるわけではなく、両者とも魅力があるからこそ、海外に流出したともいえる。高い金を出してでも買いたい顧客がいたといえる。
実力に文句のつけようはありません。
旗本であり、家治の寵愛をうけ、狩野派を学びながら、浮世絵も手がける。
そんなキャリアも含めて、実に興味深い絵師である栄之は『べらぼう』でどう描かれるのか。
知る人ぞ知る絵師から、誰もが知る絵師となり、再び彼の展覧会が開催されることを願ってやみません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから(→link)
【参考文献】
近藤史人『歌麿 抵抗の美人画』(→amazon)
田辺昌子『もっと知りたい 喜多川歌麿』(→amazon)
小林忠『浮世絵師列伝』(→amazon)
他