天明五年(1785年)6月1日は、第八代秋田藩主・佐竹義敦(よしあつ)が亡くなった日です。
時代的には十代将軍・徳川家治の頃の秋田藩主ですね。
江戸中期の大名=苦労人というのがセオリーですが、ご多分に漏れず義敦も中々の苦労をしています。
同時に「秋田蘭画」という面白い絵も確立したりしていて、なかなか興味深い御方でもあります。
早速、見て参りましょう。
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秋田騒動の余韻冷めやらぬうちに藩主となり
佐竹義敦は1758年、10歳のときに父親が亡くなり、藩主を継ぎました。
幼少期から江戸で過ごしており、その7年後の1765年、初めて国元入りした際、秋田藩の財布はまさにスカンピン。
度重なる飢饉で藩の懐は寂しくなり、農民の数も激減しておりました。
半世紀ほど前のお家騒動の余波がまだ残っていたのです。
このお家騒動はそのまんま【秋田騒動】と呼ばれています。
ひとことで言うと「もともとトンデモなかった借金が、藩主の後継問題・政策の失敗・飢饉のトリプルコンボをくらって最悪になった」という感じ。
不幸コレクションのようで聞いてるほうがトゥライ……。
残念ながら、義敦はこの問題を解決することはできません。彼の名は、全く別の分野で特記されることになるのです。
和洋の技術を取り込んだ「秋田蘭画」の技法を確立
その頃、秋田藩にはあの平賀源内がやってきていました。
鉱山開発のため、彼の知識が必要とされたのです。
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はるばる秋田までやって来た源内は、一人の秋田藩士と出会いました。
小田野直武(おだの なおたけ)という人で、源内は彼の絵心を見抜き、「試しに西洋のやり方で描いてごらん」と助言。
実際に、直武が源内の言う手法を取り入れて描いてみると、日本画と西洋画の技術がうまく融合した、全く違う絵ができあがったのです。
この変わった絵の話を聞いた義敦は、早速、直武を召し出しました。
元々義敦と直武は年も近く、その上興味のある分野も同じだったわけですから、打ち解けやすかったのかもしれません。
以降、義敦は直武を絵の師と仰ぐようになります。
彼らの描く、日本と西洋の技術が融け合った絵は「秋田蘭画」と呼ばれるほど高い評価を得るようになりました。
日本画をベースに陰影や立体感などが加わった手法で、義敦を通じてときの蘭癖大名(らんぺきだいみょう・オランダ西洋式を好む大名)にも広まっていきます。
有名どころでは、以前当コーナーでも取り上げた細川重賢などがいます。
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熊本藩の財政改革に成功した人で、いかにも節倹に厳しそうな感じがしますが、芸術に理解があったというのは意外ですね。
蘭癖大名と言われていたからでしょうか。
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