大田南畝

鳥文斎栄之が描いた大田南畝/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

大田南畝は狂歌師であり武士であり「武士の鬱屈あるある」を狂詩に載せて大ヒット!

江戸時代も折り返し地点を過ぎたころ、幕政を担った田沼意次は、米ではなく貨幣を重視する経済への転換を図りました。

かつて賄賂の権化のように語られた田沼ですが、そう単純に悪人などとは言い切れず、彼の経済改革も頓挫したように見えて実情はそうとも限りません。

百万都市である江戸では、出版や文化で食べていく新しい道が作られたのです。

要はエンタメを武器に暮らしていくわけで、現代であれば真っ先に頭に浮かぶのがYoutubeやTiktokあたりでしょうか。

江戸時代の最先端メディアは紙ですから、当然、そこが舞台になり、この流れは支配階級であった武士にもおよびます。

刀ではなく筆で身を立てる武士も現れ、その筆頭の一人と言えるのが大田南畝でしょう。

幼い頃から秀才として知られた南畝は、自身が学問で得た教養を活かしながら、江戸後期のエンタメに大きな影響を与えてゆく――その生涯を振り返ってみましょう。

人気絵師・鳥文斎栄之が描いた大田南畝/wikipediaより引用

 

お好きな項目に飛べる目次

御徒町に生まれた神童

ときは徳川家重の時代――寛延2年(1749年)、大田正智と妻・利世夫妻のあいだに長男・直次郎が生まれました。

御徒町に住む下級武士の子で、この家は七十俵五人扶持。

辺りは下級武士が狭苦しい家を並べる、よくいえば静謐、悪くいえばパッとしない町です。

直次郎は幼い頃から聡明でした。

周囲から「ありゃ神童だ」と呼ばれるような才気があったのでしょう。

教育熱心な母・利世は、我が子の師匠を面接して選ぶほどです。

直次郎は、そうして母が選んだ多賀谷常安のもとに8歳で入塾。

基礎的な学力をみっちりと身につけた直次郎は、15歳の若さで「江戸六歌仙」と称される内山賀邸(後の椿山)に入門します。

 

輝かしき青春時代

同世代の子どもが通う藩校や寺子屋と異なり、文人の塾ともなれば、出身階層も年齢も異なる才人が集まっている。

親子ほどの年齢差があろうと、才人同士は惹かれ合い、響き合います。

若き直次郎は、この塾で才知を磨く文人たちと交友を深め、切磋琢磨しました。

その中には後に「狂歌三大家」として名を並べる朱楽菅江もいました。

彼らと共に学んだのは、国学に漢学、和歌、狂歌、漢詩、狂詩と多岐に渡り、この自由度の高い教育や読書空間こそ、近代日本の特性があります。

例えば、科挙のある清や朝鮮では、どうしても受験対策が学問の目的と化してしまいます。

教科書の中には、金も美女も地位もあると教えられ、その目的のために学ぶことは確かに効率的かもしれません。

しかし、人生の目的や道を求める学びとは何かが違う……そんな違和感はつきまとうものです。

日本の武士は、家柄で身分が固定され、科挙の成績で地位が決まらぬことを嘆く。

一方で科挙のある清や朝鮮では、学問が科挙目的になることに息苦しさを覚える。

そんな教育環境がありました。

科挙
元祖受験地獄!エリート官僚の登竜門「科挙」はどんだけ難しかった?

続きを見る

直次郎は、父にならい17歳で御徒見習いとして幕臣となり、同時に学問も続けました。

18歳の頃には荻生徂徠派の漢学者・松崎観海にも師事。

幅広い階層と学問を深めつつ、武士としての教養も身につけます。

直次郎の学びの時間は、青春そのものでした。ここからは文人として、号の南畝で呼びましょう。

彼の回想によると、こんな思い出があります。

気の合う塾の仲間と勉学を楽しんでいた。

彼らは塾で話し合うだけでは飽き足らず、インスピレーションを得るために旅をする。

当時のことですから、交通手段は当然脚――まだ二十歳ころの青年とはいえ、何十キロもぶっ通しで歩き回るのです。

しかも宿では酒を飲み、深夜まで話しこみ、そして翌日になったらまた歩く。雨に降られても歩き続ける。

仕事はしないのか?

これは学問と言えるのか?

そう思わず言いたくなるほど羨ましい長旅のことを、彼は回想していました。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-江戸時代, べらぼう
-

×