大田南畝

鳥文斎栄之が描いた大田南畝/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

大田南畝は狂歌師であり武士であり「武士の鬱屈あるある」を狂詩に載せて大ヒット!

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狂詩集『寝惚先生文集』がベストセラーとなる

大田南畝は明和3年(1766年)、漢詩作りの案内ともいえる『明詩擢材』(みんしてきざい)を発刊。

明代の詩で使われている用語の分類集でした。

注目すべきは「明代の詩」というところでしょう。

日本では長らく唐詩が至高のものとされ、宋代以降はあまり馴染みがありません。

現代の漢文教育にもその影響は残されており、教科書に掲載される詩は唐代が多い。

明代となると、漢語の意味も唐代と比べてかなり変化しており、馴染みも薄くなっている。文法も変わってきていますし、当然、流行も違います。

しかし、そこにかえって清新さを見出すこともできるといえます。

あえて明詩を取り入れることは、当時の江戸文人にとってはトレンド先取りのようなものです。

翌明和4年(1767年)、同門の平秩東作に見出され、狂詩集『寝惚先生文集』が刊行され、評判となります。

狂詩とは、狂歌の漢詩バージョンです。

当時の文人は漢詩も読めました。

漢詩のルールに添いつつ、皮肉やユーモアを交えて詠む漢詩を挿し込み、これが全国各地まで広まるほど、大ヒットとなるのです。

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「武士の鬱屈あるある」が武士にウケ

興味深いのは「狂詩」というところでしょう。

町人にまで教養が広まった時代とはいえ、漢学は武士のもの。

武士たちは藩校に通い、四書五経を読む。武士として儒教倫理を叩き込まれ、真面目に学んでいるけれども、金持ちにはなれない。

このころは武士より商人の方がよい暮らしをしていることなぞ、珍しくもなんともありません。

現在まで残されている建造物でも、豪商の屋敷の方が武家屋敷より豪華な造りであることはしばしば。

食にしたって、江戸時代に流行した料理といえば、町人のファストフードであった天麩羅です。

江戸っ子が天麩羅をハフハフと頬張り、武士は自宅で貧乏メシの定番である煮大根をかじる。

そんな世の中ですから、町人としても武士を「貧乏くせぇ連中だ」と小馬鹿にする気持ちが生じてきてしまう。

一方、武士としてもそんな暮らしが辛い。要は、町人が羨ましいのです……。

そんな「武士の鬱屈あるある」を漢詩文に載せたところ大ヒット!

貧乏がテーマのものも多数あり、「そうだよ、これなんだ!」とスカッとする武士が少なくなかったとか。だからこそウケたのです。

同年には塾の仲間と漢詩集『牛門四友集』を刊行しました。

大田南畝が若き日に詠んだ漢詩には、彼の人生観があらわれています。

安酒を飲み、琴を奏で、その日を楽しむのがよい。人生なんて短いものだ。

成功や名声を求める意味があるのか?

不運を恨んでも仕方ない。俺の周りは皆友達。酒がないなら着物を質にいれればいい。川みたいに人間も流れていけばいいのだ――。

まるで東洋文人が憧れる「竹林の七賢」のような境地が見て取れます。

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とはいえ、南畝にも鬱屈がないわけではありません。

まだ若いのに出世を諦めているような悟りはいったい何なのか。

江戸後期の御徒町生まれ、そんな武士の青年が、魏晋時代、竹林にいた文人のような悟りを得ている。

なんとも興味深い人生観です。

ソロデビュー作『寝惚先生文集』以降、黄表紙も出したそうですが、こちらはヒットをおさめられなかったようです。

そうした世の不沈に虚しさを感じていたのでしょうか。

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江戸の狂歌ブームを牽引する

明和6年(1769年)ころ、大田南畝は四方赤良と名乗り、狂歌サークル「四方連」を率いることになります。

狂歌は上方からの流行であり、江戸は後発。

それがたちまちブームに火がついてゆきます。

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南畝がブームを牽引できた理由は、いくつも考えられます。

・彼の確たる教養

幼児から培ってきた和漢の知識は確たるものがあり、作品のセンスのよさに周囲は舌を巻きました。

同塾中心とした人脈。愉快で楽しめる文人仲間が多く、その口コミで広がるだけの要素は十分にあります。

・田沼時代というボーナス

当時は貨幣経済への転換を図る田沼意次の時代であり、金回りが良い時代でした。商人たちも知識やウィットに金を使える時代です。

時代を読み解く南畝は、今風で言えばパリピでした。

爛熟した文化のある江戸では、広報のためのイベントも開催されます。

安永5年(1776年)から8年(1779年)にかけては、しばしば大規模な「観月会」の中心部にいました。

こうした交流を通し、さらに南畝の人脈は広まります。

江戸のパーティは文人なら誰でもできるか?というとそうではなく、陰キャ文人の滝沢馬琴あたりにはどだい無理な話です。

安永9年(1780年)頃には、出版業に乗り出しつつあった蔦屋重三郎のもと、『嘘言八百万八伝』を出版。

それまでの作風とは異なり、荒唐無稽なドタバタを描く黄表紙でした。

目端のきく蔦屋が彼に出版を依頼したのは、自然な流れだったのでしょう。

そんな華やかな安永年間に、南畝は山東京伝とも知り合ったとされています。

天明3年(1783年)、朱楽菅江と共に『万載狂歌集』を編集。

この頃からは田沼政権下の勘定組頭・土山宗次郎というスポンサーも得て、吉原に通うようになりました。

吉原松葉屋の新造・三保崎を身請けし、自宅の離れに住まわせてもいます。

このころには青年期の清貧を夢見た南畝とは、かなり異なる姿が浮かんでくるのです。

しかし自由だった田沼時代も、ついに終わりがやってきます。

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