二の丸騒動

二の丸騒動の舞台となった高島城

江戸時代

諏訪藩の二の丸騒動は現代社会にも通じるブルシット騒動~無能な家臣と主君が痛すぎる

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貞亮の反撃

貞亮は、諏訪忠厚の妹婿であり、「奏者番」というお偉いさんだった松平乗寛(のりひろ)へ訴えることとしました。

奏者番自体も大名と幕府との間で礼儀作法を教えたり、日頃から何かと連絡を受け持つことが多かったので、頼りやすかったのでしょう。

乗寛は「これを幕閣に知らせれば、諏訪家は改易になってしまう」と考え、義兄である忠厚の説得に乗り出してくれました。

そして忠厚の隠居と長男・軍次郎の元服及び家督継承を取り付け、なんとか改易を回避します。

ときの老中・田沼意次にも話が通っていたようです。

田沼意次
田沼意次はワイロ政治家というより優秀な経済人? 評価の見直し進む

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現代の我々からすると「こんなダメダメな家、改易でもいいじゃん」と思ってしまいますね。

しかし江戸時代でもこのくらいの時期になってくると、そう簡単に潰すことはできません。

なぜなら新たな領主を選ぶ手間や、領民の慰撫など、とにかくコストがかかるためです。

かといって幕府の直轄地にしてしまうのも難しい。

度重なる天災や飢饉、そして火災などで、どこの藩も家もボロボロでしたので、まともな人物に世代交代させて、政治改革に勤しむほうが確実なわけです。

そして、事の発端である頼保派には切腹や斬首という重い処分を下し、ようやく騒動は終結。

貞亮は無事に元の家老職へと戻り、七代藩主・諏訪忠粛(ただかた)にも信任されてバリバリ働いていきます。

そして諏訪藩は

・用水堰開発

・郷村財政整備

・藩校「長善館」の設立

・藩医に長崎留学を命じる

などの諸改革に取り組みました。

 

その後は安泰に

忠粛の子・諏訪忠恕(ただみち)も、父の薫陶を受けて内政や養蚕業奨励などを行い、成功を収めました。

しかし、藩内の凶作や江戸藩邸の焼失等により成功がチャラになってしまい、またしても財政が悪化。

諏訪藩で数少ない百姓一揆が起きてしまったために、あまり評価は高くありません。

本人は悪くないので、ちょっとかわいそうですね。

忠恕の子・諏訪忠誠(ただまさ)は、外祖父があの松平定信

若い頃の忠誠を見て、定信は「将来有望な若者」といった印象を抱いたとか。

幕末にはいろいろありましたが、無事に諏訪家を存続させ、明治時代には子爵を授かっています。

その後の子孫がマシなだけに、なんで六代・諏訪忠厚だけがあれだけ無能だったのか、理解に苦しみますね。

一行でまとめるとすれば

「分不相応な人が野心を抱いたり、極端に高い地位についたりすると、ロクなことがない」

ということでしょうか。

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長月 七紀・記

【参考】
中江克己『江戸三〇〇年 あの大名たちの顛末』(→amazon
『江戸大名 (知れば知るほど)』(→amazon
国史大辞典
ほか

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