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【上杉鷹山】
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人多すぎ、藩主散財では立て直せるワケがなく
五代目から八代目までの藩主交替の間にも、米沢藩はますます逼迫してゆきます。
代々の藩主は病弱で夭折してしまったり、政治に無関心だったり。しかも幕府からの普請は命じられるわ、飢饉は起こるわ。
禁じ手だった藩学の知行借り上げは定着。領民には7千両の借り上げ。人別銭や軒銭といった増税も相次ぎ、藩士から領民まで皆疲弊しきっていました。
江戸時代も中期となると、どこの藩も改革に迫られます。
天災、疫病、産業構造の変化、人口の伸び悩み、幕府に命じられる普請手伝い……その中でも、米沢藩は全国屈指の困窮ぶりです。
それも当然。藩の規模にあわない藩士の数がおり、窮乏を無視して散財にふける藩主がいればどうにもなるワケありません。
借金はついに20万両にまで膨れあがりました。実に、藩予算の総額6年分になります。
これに対し周囲はどうしたか?
まず江戸の商人たちは返済能力がもはやないとみなし、米沢藩に金を貸すことはなくなりました。
よって藩は家臣からの借り上げ、増税、宝物を質に入れるという禁じ手を使い、糊口をしのぐほかありません。
借金苦のあまり、米沢藩は領地返上、すなわち自己破産を真剣に検討し、尾張徳川家から止められたほどです。
そんな状態でも藩主は無策無能、趣味にかまけるばかり。
藩の上層部は、そこで一人の少年に未来を託します。
世子、つまりは次期藩主となる長丸、のちの上杉鷹山でした(彼は何度か改名しますが、本稿はこれ以降、全て鷹山とします)。
上杉鷹山 吹雪の中、馬で颯爽と入城す
長丸は幼い頃から聡明で、慈悲深い性格であると評判でした。
そして明和6年(1769年)、鷹山が養子として米沢入りすることとなります(実父は九州の大名・秋月種美で、母方の祖父に米沢四代藩主・上杉綱憲がおりました)。
彼は藩主となった時点で大倹約令(大倹令)を発布。これを機に、藩主が率先して己の身を切る改革が始まるのです。
まず、自身の周囲から改革案を掲げると、藩士たちにもピリッと緊張感が走ります。
・年間の仕切料(衣服・食費・交際費等、藩主の生活にかかる費用)を1500両から209両に削減
・一汁一菜の徹底
・衣服は木綿のみとする
・奥女中は50名から9名に削減
このとき鷹山、僅か17歳。
今度の殿は本気らしい――。
家臣たちはそう期待しながら城で鷹山の登場を待ちます。
藩主は城の手前で馬に乗り換えるのですが、通例よりはるかに手前で駕籠から馬に乗り換え、吹雪の中、颯爽と入城しました。鷹山は寒い中はたらく駕籠かきを労ったのです。
藩主初入部祝いの膳は、赤飯と酒のみ。
この質素倹約への徹底した取り組み、しおして気さくな態度で足軽にまで声を掛ける若き藩主を見て、家臣領民は感動したことでしょう。
しかも鷹山は、優しいだけではありません。
鷹山の改革を苦々しく思う老臣たち七名が改革反対の強訴を行うと、果断にも処罰を行います(七家騒動)。若き藩主の改革に挑む心意気は、時に苛烈でもありました。
かくして反対派を排除した鷹山は、断固たる改革に取り組みます。
「籍田の礼」という中国の「天子親耕(君主自ら耕す)」制度にならったものです。
鷹山は家臣たちを引き連れると、手足を泥に浸しながら田を耕しました。その姿を見て、まさに全米沢藩が泣くような感動の嵐が巻き起こります。
「もったいなくもお殿様が、脚を汚い泥に浸して耕すなんて……!」
覚悟を見せ付けた鷹山は、本気で全力改革に乗り出します。
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