1934年7月4日、女性初のノーベル賞受賞者であるマリ・キュリー(キュリー夫人)が亡くなりました。
生まれたのが1867年11月7日ですので、66歳まで生きたのですね。
彼女が生まれた頃は、どこの国でも「女性の人権」が叫ばれ始めた頃合い。
マリ・キュリーも分厚い”ガラスの天井”に挑みながら、自身の研究を進めました。
その生涯を振り返ってみましょう。
※文中の表記はマリ・キュリーといたします
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ロシア支配下のポーランドに生まれる
ときは19世紀。
女性の人権どころか学校教育さえ浸透していなかった時代――このことは成長してからもマリ・キュリーの障害となって立ちふさがります。
マリ・キュリーの家はお父さんもお母さんも教育者だったので、幼い頃から本に親しむことができ、また記憶力も良い優れた頭脳の持ち主であることがわかっていました。
しかし、ポーランドという国が襲われてきた苦難が襲い掛かります。
ポーランドはロシア帝国とヨーロッパ諸国の間に位置するため、度々どちらかからの侵攻を受けていたのです。
マリ・キュリーの時代にはロシアに事実上併合されていて、知識層への圧力が加わり、彼女の両親は職を失ってしまいました。
それまで住んでいた家も追い出され、一家は非常に苦しい生活を強いられます。
母や姉を亡くし一時は深刻なうつ病に…
ポーランドは東欧に分類されるとはいえ、寒さの厳しい土地ですから、一度病気にかかれば回復は絶望的。
その中でマリ・キュリーはお姉さんやお母さんを亡くし、一時は深刻なうつ病になっていたようです。
頭がいい人ほどあれこれ考えてしまうことも多いですしね……。
まして、母親を亡くしたときマリ・キュリーは14歳ですから、多感な時期に肉親を続けて失っては、精神的な辛さは凄まじいものだったでしょう。
しかし何とか持ち直し、再び学校に通えるようになりました。
本来の頭脳の冴えを取り戻したマリ・キュリーは、ギムナジウムという日本の中学・高校にあたる学校を優秀な成績で卒業します。
当時の女性には大学以降の高等教育機関へ進むことが困難だったため、一度田舎で休養した後、住み込みの家庭教師として働き始めました。
この間、辛い失恋もしています。
しかし「さまよえる大学」という、今で言う移動教室のような講義をしている団体に出会い、そこで勉強を続けたのは不幸中の幸いだったでしょう。
この時期に科学の道へ進んだようですので、移動教室が彼女の運命を変えたと言えますね。
いつか祖国の役に立ちたい――その一心で勉強し続けたマリ・キュリーに対し、少年院の院長という仕事を得た父は、より勉強に集中できるよう配慮しました。
マリ・キュリー24歳の頃、念願かなってフランスへ移住。
当時、女性の入学を認めていた数少ない大学のひとつ、ソルボンヌ大学(パリ大学を構成する大学のひとつ・現在はパリ第6大学)に入学しました。
お姉さんの一人ブローニャが結婚してパリに住んでいたため、そこで世話になり、姉夫婦を通じて人脈を広げていくことになります。
実は当初、ブローニャとマリ二人でパリに行きたかったものの、当時は二人分の列車代を用意できなかったため、姉が先に故郷を離れた……という経緯がありました。
ブローニャにとって、妹の世話をするのは「先にパリで学ぶチャンスをくれたお礼」だったのです。
物理学の学士号を取得 奨学金で研究を続けた
しかしいつまでも姉夫婦に甘えていられないと考えたマリ・キュリー。
姉夫婦と分かれて別に部屋を借り、自ら苦学生の道を選びました。
部屋とも言いがたい屋根裏の一室で、昼は学生として学び、学校が終わってから家庭教師のバイトに励み、家に帰ってからは食事もロクにできないような状態で生活していたそうです。
当然ながら暖房もなく、冷え込む日には手持ちの衣類を全て着込んでいたとか。
お姉さんの旦那さんがお医者さんだったので、そちらにお世話になることもあったほどです。
そして26歳になる頃、ここまで頑張ったマリ・キュリーに神様がやっと味方してくれるようになります。
物理学の学士号を取ることができたのです。
また、マリ・キュリーと同じくポーランド出身の学生たちが奨学金の手筈を整えてくれ、研究を続けられるようになりました。
このあたりから外部機関の研究を受託し、わずかではありましたがお金を稼げるようになり、少しずつ生活が改善していきました。
奨学金も無事返済できたそうです。よかったよかった。
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