マリ・キュリー夫人

マリ・キュリー/wikipediaより引用

学者・医師

マリ・キュリー夫人 ノーベル賞を2度も取った女性科学者は放射能に身体を蝕まれ

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旦那さんも天才科学者だった

もちろん全てが順風満帆だったわけではありません。

マリ・キュリーが請け負った研究の中には、そこそこの広さの実験室がなければ進めるのが難しいものがあり、彼女一人では場所を用意できなかったのです。

その頃かつての知人が尋ねてきたところへ、世間話としてその話題をしてみると、たまたまその女性の旦那さんが物理学の教授だった……というこれまたラッキーなことがわかりました。

さらに「それなら、部屋を貸してくれそうな人を紹介してあげるよ」と言ってくれたのです。持つべきものは知り合いですね。

こうして出会ったのが、後に結婚することになるピエール・キュリーでした。

夫のピエール・キュリー/wikipediaより引用

日本では”キュリー夫人”としてマリ・キュリーだけが有名ですが、ピエールも天才科学者として既に相当知られた存在。

彼の名を取った「キュリーの法則」というものもあるくらいです。

ピエールは以前恋人と死別したことがきっかけで恋愛から遠ざかっていましたが、マリと会ったときにはピンときたようで、お互い惹かれあっていきます。

そんなわけで、学問でもプライベートでも極めて親密に付き合った二人。

マリ・キュリーは「いつか故郷に帰りたい」と思っていたので、結婚に対しては慎重に慎重を重ねました。

しかしピエールの熱意も相当のもので

「僕と結婚してくれるのなら、一緒にポーランドに行くよ!!」(超訳)

とまで言って誠意を示しました。

そして出会った翌年の夏、宣誓や指輪もなくドレスのみという簡素な結婚式が行われています。

ポーランドからマリ・キュリーの家族も駆けつけ、小ぢんまりした温かい式だったようです。

新婚旅行は、自転車でパリのあるイル=ド=フランス地方を旅するという質素ぶりでした。でも健康的ですし、のんびりできて良さそうですね。

おそらく二人とも「形式的なことに使うお金があるなら、研究に使いたい」と思っていたのでしょう。

 

怪光線扱いされていた放射線に興味をもち…

こうして良き研究仲間かつ良き夫を得たマリ・キュリーは、ここからより一層活躍していきます。

ちなみにマリ・キュリーは料理がからっきしダメだったそうなのですが、結婚後はみるみる上達したそうです。愛の力は偉大ということでしょうかね。

1897年には長女イレーヌに恵まれ、家庭生活は幸せいっぱい。

同時期に義母が亡くなるという悲劇もありましたが、マリ・キュリーはやもめとなった義父のキュリー医師に一緒に住むように勧め、彼が妻の死から立ち直れるようにはからっています。

キュリー医師も息子夫婦の代わりに孫娘の面倒を見ることで、活力を取り戻していきました。

マリ・キュリーの家族

夫と長女と/wikipediaより引用

マリ・キュリーとピエールは、やがてアンリ・ベクレルという別の学者が発見していた「謎の光線」に興味を持つようになります。

先に正解を言ってしまうと、これが今日でも色々と物議を醸す「放射線」でした。

アンリは途中でこの光の調査をやめてしまったため、当時は怪光線扱いされていたのです。

そしてキュリー夫妻がウランを始めとしたさまざまな物質で調べてみた結果、同様の怪光線……もとい、同等の光を観察することができました。

そしてこれを「放射性元素」と名付け、世間への発表を急ぎます。

現在の特許などもそうですが、同じようなものを発見したり発明した人が複数いた場合、先に届け出たほうが権利者になるからです。

そのため大急ぎでできるだけ簡潔にまとめた論文を書いたのですが、既にドイツの学者が同様の発見及び発表をしており、夫妻のものとは認められませんでした。残念。

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