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【マリ・キュリー(キュリー夫人)】
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濃縮させた放射性元素の器から、淡い光が
その後二人がノーベル賞を受けることができたのは、同じ放射能関連で別の物質を発見したのがキッカケです。
夫妻は1898年の7月にポロニウム、同年12月にはラジウムという新しい元素の存在を発表。
ポロニウムはマリの故郷ポーランドから取られた名前でした。
しかし、新しいものにはいつでも鼻笑いがまとわりつきます。
このときも例外ではなく、他の科学者たちがこんな態度を取りました。
「本当にその元素が新しいものだというなら、原子量その他諸々がはっきりしないといけないんじゃないの 笑」(※イメージです)
もちろん、くだらない嫌がらせにたじろぐ二人ではありません。
直ちにイチャモンをはねつけるため、更なる研究の準備を始めます。
一時は家計の危機にも陥るほど。
しかも、その間に夫妻の肉親が亡くなったり、資金調達のため仕事を増やし実験が思い通りに進まなかったり、色々と紆余曲折はありましたが、ある日ついにその努力が実ります。
濃縮させた放射性元素の器から、淡い光が生まれたのです。
マリ・キュリーいわく「妖精のような光」だったそうですから、ただ美しいばかりではない妖しさもあったのでしょうね。
この後、発覚する放射線の功罪を考えれば、彼女の表現は実に的確といえます。
1903年に夫妻でノーベル賞を受賞すると、1904年には次女エーヴが誕生。
この時期の二人は、研究成果への誇りとプライベートの幸福で感無量になっていたと思われます。
しかしその裏で、放射能はゆっくりと二人の体を蝕み始めていました。
「ピエールと同じように轢かれて死んでしまいたい」
キュリー夫妻は放射性物質の精製法を独占せず公開したため、少しずつ多方面で応用されるようになります。
代表的なものは、皮膚疾患や悪性腫瘍(がん)になってしまった細胞を破壊し、正常な細胞の再生を促すという”キュリー療法”です。
こうして学界だけでなく世間に広く注目されるようになったキュリー夫妻。
しかし、それは二人にとっては不本意極まりないものでした。
過熱したマスコミが自宅や研究所にところ構わず押し寄せるようになり、辟易した一家は少しずつ身を隠すような暮らしを選んでいくようになるのです。
マスコミって100年前から変わっていませんね。
そうしてようやく落ち着いた頃、一家は悲劇に襲われます。
ピエールが馬車に轢かれ、突然、亡くなってしまったのです。
ようやく貧困からも喧騒からも脱し、長女も次女も健やかに育っていたところでこの悲報は、マリ・キュリーの心を大いに沈めました。
日記には「ピエールと同じように轢かれて死んでしまいたい」というようなことが書かれていたそうです。
二人が天才同士としてお互いに認め合い、さらに男女としても理解しあえた貴重な存在だったことが痛いほど伝わってきますよね。
もちろん金銭的な不安もありました。
冒頭でも触れた通り、当時は男女差別が公認されていた時代。
当然大学におけるピエールの給料はマリよりも多く、大黒柱を失って二人の娘を育てるのは困難に思われました。
義父のキュリー医師は健在でしたが、それでも限度があります。
女性初のノーベル賞受賞者であり大学教授
そこに、救いの手を差し出したのがソルボンヌ大学でした。
紆余曲折はありながらも、ピエールの仕事や学内の実験室を使う許可など、
「夫の持っていた権利をマリが全て引き継がないか?」
という打診をしてきたのです。
ともすれば「身代わりに働け」とも受け取れるこの待遇を、マリ・キュリーは一度保留しました。
そして最終的に彼女はこれを受け入れます。
自分の研究を続けることと、夫の遺志を継ぐことは同じように重大な価値があると考えたのでしょう。
「女性が学問の道へ進む」という状況を不変なものにするという狙いもありました。
こうして、ソルボンヌ大学、そしてパリで初となる女性教授が教壇に立つことになります。
そう、マリ・キュリーは初の女性ノーベル賞受賞者であると同時に、初の女性教授でもあったのですね。
時期的に夏休みの直前だったため、マリ・キュリーは夏いっぱい時間を使って準備を整えました。
そして休み明けの11月、好奇や期待の視線を浴びながら彼女が最初に言ったのは、亡き夫が生徒に対し最後に言った言葉でした。
まどろっこしい御託を並べず、行動で夫の後継であるということを示したのです。
「沈黙は金、雄弁は銀」と言いますからね。喋ってるけど。
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