マリ・キュリー夫人

マリ・キュリー/wikipediaより引用

学者・医師

マリ・キュリー夫人 ノーベル賞を2度も取った女性科学者は放射能に身体を蝕まれ

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史上初 2度目のノーベル賞受賞者

1910年には一家を精神的に支え続けたキュリー医師が亡くなり、マリの家は完全な女所帯になりました。

長女イレーヌは12歳、次女エーヴは5歳。

マリは娘たちに体をよく動かすよう言いつけ、「1時間勉強したら1時間運動すること」をモットーにしました。

家の庭にはブランコやロープが備え付けられ、体操教室にも通ったとか。

娘たちが元気に育つ姿は、夫や義父の代わりにマリ・キュリーを支えました。

翌1911年、マリ・キュリーはウラン鉱石のかすから取り出した塩化ラジウムをもとに、純粋なラジウムを取り出すことに成功。

この実績により、第11回ノーベル化学賞を受賞します。

マリ・キュリーは女性単独として初めて、そして史上初の2度目のノーベル賞受賞者となりました。

それと前後して、一時ポール・ランジュバンという科学者(既婚)と親密になったことで世間の非難を浴びたこともあります。

ただでさえ疲労が続いていた上、世間の口撃によってマリはすっかり表に立つのが嫌になってしまいました。

1912年には疲労からの回復と手術のため、大学で教鞭をとることはできなくなりました。

放射能を人々のために役立てる――マリ・キュリーのそんな理念は最後まで変わりませんでした。

1913年にはワルシャワに放射能研究所を、1914年にはパリにラジウム研究所を設立。

第一次世界大戦勃発後は、マリ自ら機材を積んだ自動車を運転して戦場を駆け回り、X線による検査と治療を行いました。

この頃にはイレーヌが成長しており、看護婦免許を取ってマリに同行しています。

まだ若いイレーヌが戦傷を負った兵士の姿に耐えられるかは疑念の余地がありましたが、イレーヌはこれまであまり母と一緒にいられなかったため、その寂しさがなくなるということを支えに耐えきったようです。

やがて彼女は母の技術を習得し、一人でもX線検査をできるようになりました。

 


アメリカ人に助けられ ラジウムを手に入れる

戦争が終わった後もマリ・キュリーの方針は変わらず、研究を再開しました。

しかし、研究のためのラジウムはわずか1gしかありません。

とても十分な量とはいえず、しかも生成が困難なラジウムをそう簡単に購入できるわけもなく、マリ・キュリーにとってはじれったい状況が続きました。

1921年、そんなマリ・キュリーに対し、とある人物が紹介されました。

アメリカの女性ジャーナリストミッシー・メロニーです。

マリ・キュリーはかつての騒動ですっかりジャーナリスト嫌いになっていましたが、メロニーはぜひとも協力するために取材したいと申し入れ、ついに口説き落とします。

彼女は取材の中でマリの手元にあるラジウムの量について聞き、不足していることと、マリの研究所だけではお金が足りないと知ると、

「私がアメリカで資金を提供してくれる人を探します!」

と言ってくれました。

最初に渡りをつけた富豪たちには断られてしまったものの、メロニーも不屈の精神の持ち主。

「マリー・キュリー・ラジウム基金」という募金活動を行い、10万ドルもの費用調達に成功します。

こうして「マリ・キュリーがアメリカまで直接来ること」を条件に、アメリカ政府から純粋なラジウムを手に入れることができたのです。

既に放射能による障害がかなり進んでいたため、アメリカ行きにはイレーヌとエーヴが付き添いました。

道中ではマリ・キュリーの体調悪化により休養したり、太平洋側への旅程を取りやめたり、いくつかトラブルはあったものの娘たちには良い影響を残しました。

イレーヌは既に科学者になっていたので、母の体調が優れないときに、代理でスピーチを行っています。

まだティーンエイジャーであり、科学に興味のないエーヴは異国の地で社交性を育て、それは彼女の人生に大きな遺産となって残りました。

帰国後、メロニーの集めてくれたお金はいくらか余裕があったので、マリ・キュリーはそれを元にフランスの研究所を整備しました。

体調悪化によって研究に専念することは難しいと悟ったマリ・キュリーは、厚生のために自分にできることを模索し始めます。

1922年に発足した国際連盟知的協力委員会(ユネスコの前身にあたる組織)に参加したり、後進の育成や他の科学者たちとの交流に務めました。

結局、放射能がマリの体を打ち負かしたのは1934年のこと。

最期まで病状は知らされず、静養と偽ってスイスのサナトリウムに入院し、7月4日に息を引き取りました。

イレーヌは夫と共に研究所を指揮していたため立ち会えず、エーヴが医療関係者と一緒に看取ったようです。

こういうとき本人に知らせるべきかやめるかは、現代でも意見の分かれるところ。

マリはどっちにしてほしかったんでしょう。


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長月 七紀・記

【参考】
クロディーヌ・モンテイユ/内山奈緒美『キュリー夫人と娘たち 二十世紀を切り開いた母娘』(→amazon
世界大百科事典
日本大百科全書(ニッポニカ)
ほか

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